未練たっぷりに別れた妻の存在も鍵である。
ティーンエイジャーの頃からの付き合いである妻もまた警察官であり、あろうことかランツマンの上司として赴任してくる。
折り紙付きの美女としての描写などはひとつもないのだが、中年ランツマンの揺れる心が少年のように描かれることによって、この作品の世界観には奥行きが増している。
この元妻は、結果的に行き過ぎた捜査を行ってしまったランツマンの、警察バッジと拳銃を奪ってしまう。
現場に戻ることを許されず、権力の後ろ盾をも失ったランツマンが、バッジの代わりに携行するのが、本来は何の役にも立たないはずの『ユダヤ警官同盟』の会員証なのだ。
酒びたり(ちなみにどうやらランツマンは、アルコール依存症とは思われない)で体力も衰えたランツマンが、友人から借りた22口径のちっぽけなベレッタと、その《角が折れてなければよかった》会員証をポケットに、危険な街に繰り出す。
ここで彼は、うまい具合に《私立探偵》になるのだ。
(この作品は、映画化されたそうであるが、僕はその《会員証》が見たくてたまらない)
上下巻で800ページにも及ぼうとする本書の背景はこのくらいにせざるを得ない。
書いておかなくてはならないのは、その語り口調である。
間口の広い、いわば寛容なミステリ読者であれば、その少しばかり屈折した比喩から、これをチャンドラー風味と取るかもしれない。
が、チャンドラリアンを自称する読者は、これをその劣化コピーと断ずるかもしれない。
だが実は、細部の文体にチャンドラーが宿っているのではない。
主人公ランツマンの、自分の引っかかりに正直にならざるを得ないという根性こそが、古典的な意味でのハードボイルド・マインドなのだ。
本書には、頭のおかしいシリアル・キラーも出なければ、残虐な拷問シーンなどもない。
人によっては、登場人物の誰もが、いささかユーモラス過ぎると感じる向きもあるかもしれない。
だが、彼らの言辞や論理の裏側を表装している、食えない《ユダヤ的論理》だけは見逃せない。
祖国を持たず、今またシトカから追い出されようとしている人々の、3千年越しのしぶとさである。
ランツマンはそうしたしたたかなユダヤの血と、自分の中に流れる血脈との間で、時に敢えて自ら思考停止した行動を取る。
派手なアクションやこれ見よがしの正義感は無いが、いつも誠実な、安心して見ていられるヒーローである。
物語はやがて、極右的な原理主義者の陰謀が絡んでくるが、このくだりは現代的社会派のノンフィクション的な魅力がある。
そしてそれと対極を成すのが、著者の巧みな筆運びによってすんなりと納得させられてしまう、一人の異能者――救世主の存在だ。
物語はざらついた風景・風俗描写の中で展開するが、そこにいる人々には血が通っている。
暴力装置としてだけの人物の輪郭は曖昧にぼかされ、重要人物たちは同じ筆致の中から細密に浮かび上がる。
このマイケル・シェイボンという著者は、かなりのしたたか者である。
純文学でデビューし、SFやこうした警察小説もものするあたり、既成の枠に囚われない異能の持ち主だ。
本格推理、SF、ハードボイルド、歴史小説、はては大人の恋愛小説の要素までをも混ぜ込んだこの大著。
読後感は実に爽やかである。