語学を学ぶのが好きな人にとって、この小説はたまらない面白さだと思う。
ハンブルグに住む優奈は、ブリュッセル経由でボルドーに入り、ボルドーでいきなりプールへ行くのだが、プールサイドにまでタオルと一緒に独仏辞典を持ち込む。しかも優奈は時々頭をあげて、辞書がさっきおいたところにまだあるか、確かめるのだ。
この独仏辞典をめぐるあれこれが小説のクライマックスになるのだが、ああ、その気持ちわかる!と思った。私も辞書中毒で、広辞苑、漢字源、英和、和英、伊和、和伊、仏和、和仏入りの電子辞書と予備電池が常時手元になければ、呼吸ができないような気がしているから。
☆
優奈がハンブルグからボルドーへ行くことになったきっかけも、語学である。
「優奈は空腹だった。また新しい言語をかじりたかった。むかし学校でもらった英語や古典の成績はかんばしくなかったが、それでも優奈は言語や単語への健康な食欲を失うことはなかった。単語を覚えるために辞書を食べてしまうことさえあった」
優奈は、何か新しいこと(たとえばフランス語とか)の勉強できるところへ行きたいと仏文学者のレネに言うのだが、レネの義兄がボルドーに住んでおり、夏休みの二ヶ月間、空き家になるその家を使ってもいいという話になるのだった。
だが、この小説にとって、そんなストーリーの整合性は大して重要ではなく、世界の中心はあくまでも言葉である。ボルドーという言葉については「特に最後のxが好きだった。その前に来る三つの文字の並びeauも好きだった」というほど偏愛的だし、義兄については「以前ハンブルグには、アメリカに伯父がいるという人がたくさんいたが、その伯父たちは自分の存在を証明するために新大陸から規則的に夢の商品を運んでこなければならなかった」「それに対してフランスにいる義兄などというものは、贈り物はしなくてもいいし、ハンブルグに来なくてもいい。そのかわり、忘れられないためには、ちょっとしたエピソードに頻繁に顔を出さなければならない」と説明される。
確かに、この小説のタイトルが『ボルドーの義兄』ではなく『アメリカの伯父』だったら、全く違うタイプの小説を思い浮かべてしまうだろう。つまり、この小説は『アメリカの伯父』的なクラシック小説のパロディーなのだ。論理的な時系列ではなく、通じない言葉や噛み合わないコミュニケーションの新鮮さのみが物語を推進し、現在と記憶と妄想がシュールに交差する。断片的な風景は、大きな物語にはならず、分裂を繰り返すばかりだ。
「昨日と今日の間には何があるのか。こことあそこの間には夜が横たわっている、と言う人もいるだろう。それでは夜の向こう側では残されたもう一人の優奈が生き続けているのか。そうして夜行で旅するごとに自分の数が増えて、それぞれの時間空間に一人ずつ自分のサンプルが一つ残るのか」
「プールへ向かう途中、優奈は自分の水着は本当に鞄に入っている一着しかないのではなく、ひょっとしたら、もっと何着もトランクの中に隠れているのではないかと疑い始めた。一回に一着しか見つけることができない。同じ夜についての別の記憶を、それぞれの水着が語ろうとするからだ」
☆
新しい言葉、知らない言葉を舌にのせるときの甘美な違和感は、多和田葉子の真骨頂だ。初めて口にする単語の、みずみずしさと見境のなさといったら!
「優奈はある文章をつかんで、そのまま逃げようとする者の背中に投げつけた。『あったんであんもまん!』それは語学の教科書で暗記した文章、優奈の感じたこととは全く関係のない子音と母音の連なりだった」
「『ピシン!』入場券売り場で、優奈は習ったばかりの単語を口にした。売り場の女はそれをユーロ札と同じように当たり前の顔をして受け取った」
なんてエキサイティングなんだろう。ひとつの時間を律儀に生きるのではなく、言葉に翻弄されながら複数の時間を自在に行き来し、この小説のような断片を積み重ねていけたら、と願わずにはいられない。
「優奈の夢は女優になって外国語で台詞を言うことだった」
「優奈はこの単語をもう一度味わうためだけに、レネを批難して言った。『クレンプナーには罪がなかったのに。可愛そうなクレンプナー』」
「優奈は、疲労完熟という言葉を人事課のある女性から盗んだのだが、この言葉自体が、ますます疲労の深まるような響きを持っていたので、盗んだことを後悔した」
「優奈がそのサラダを選んだのは、名前が一番長かったからだ。名前が長ければ、構成要素が多く、それを食べた人が長生きするチャンスは大きい」
「たった一つの言語では、高い塔を建てることくらいしかできないだろう。高い塔というのは危ないものだ」
「もし文法が法なら、優奈は法を犯したことになる」
「それは『嘘』ではなく、『虎』だったのかもしれない」
etc…
ものすごく本質的で重要なことがたくさん書かれていると思う。でも、時系列に沿ってきちんと成長していきたい人にとっては、どうでもいいことばかりなのかもしれない、とも思う。
☆
この小説の視覚的な特徴は、断片的な章立ての一つ一つに、「始」「堂」「捜」「駅」「乳」「閑」「瞼」「蝟」「箸」「西」というように、漢字一文字のタイトルがついていることだ。そして、そのことには理由がある。
「十六歳の頃の優奈はドストエフスキーのように長い小説が書きたいと思っていた。十九歳の時には、チェーホフのようにいろいろな長さの短編小説が書きたいと思った。一年前から優奈は個々の漢字を書きつけることしかしない」
「あたしの身に起こったことをすべて記録したいの。でもたくさんのことが同時に起こりすぎる。だから文章ではなくて、出来事一つについて漢字を一つ書くことにしたの。一つの漢字をトキホグスと、一つの長いストーリーになるわけ」
一つ一つの漢字は、フライ返しで裏返されたお好み焼きみたいに、左右反転した鏡文字として印刷されている。それは、まだ、かじったことがない異国の文字のように見え、語学フェチの食欲をそそるのである。