ぼくが句会に参加するようになって、面食らったのが季語だった。3年前にぼくがはじめて書いた俳句には季語がない。「校庭に学生服のボブ・ディラン」
この本の中にボブ・ディランのことは一言も出てこない。60年代後半から70年代はじめにかけての学生運動のこと、京都や渋谷のロック喫茶のこと。ぼくは大学へは行かなかったが、今井聖さんと同じような体験をしている。
日本では「転々とする者は大成しない」という風に使われることの多い「A rolling stone gathers no moss」というイギリスのことわざを、ぼくはずっと逆の意味にとらえていた。つまり、苔が生えないことはいいことだ、と考えていたのだ。だから就職もせずにずっと歌ばかり歌ってきた。「ライク・ア・ローリングストーン」という言葉は、まるでぼくのためにあるようなものなのだ。
「ライク・ア・ローリングストーン」というタイトルにひかれて、ぼくはこの本を読み始めた。そして著者の今井聖さんがぼくと同じ1950年の生まれであることを知った。「明日にでも革命が起きてすべては変わる」と実はぼくも思っていた。
今井聖さんは、中学2年のときに学習雑誌に俳句を応募して入選する。当時の中学2年というと、ビートルズに夢中になって、ギターを弾き始めるのが普通だった。その頃にギターではなく、俳句にのめりこんで行くところが、今井聖さんがぼくとは違うところだ。ぼくはまったく普通の子どもだった。今井さんが浪人のときに京都の寮で仲間たちと歌った「テルミー」を、ぼくも高校の学園祭で歌ったことがある。世はまさにビートルズとローリングストーンズの時代で、ボブ・ディランは日本ではまだ一般的ではなかった。俳句という、少年には一般的ではない道を行く今井さんは、ビートルズとローリングストーンズの時代におけるボブ・ディランだった。
角材をゲバ棒と呼んだ時代に誰もが巻き込まれていく。運動に参加しない学生は日和見主義者と呼ばれた。今井さんもぐんぐん学生運動に巻き込まれていくが、その傍ら句会にはせっせと通う。恋と俳句と学生運動の青春である。やがて加藤楸邨が主宰を務める「寒雷」という組織に腰を落ち着ける。そこで多くの先輩俳人たちに出会うが、中でも田川飛旅子という人の句が最も好きだったという。「夜の雪に駅の時計の機械透け」「遠足の列大丸の中とおる」、田川さんの作品には科学の目が生かされている、と今井さんは書いている。理系人間特有の怜悧な眼差しが、山口誓子と重なって見えたそうだ。そして特別な句との出会いの後には、必ずそこに自分のその当時の句を添えている。「すれ違ふ客車の一方に居て月夜」、読者は今井さんの句と共に青春をたどりなおすことになる。俳句という列車に揺られて春の野山を見るようだ。
結局苔むさなかったのは俳句なのではないかと思う。世の中の荒波に洗われて、今井さんの俳句は苔の生える暇がなかった。「ライク・ア・ローリングストーン」と俳句の関係が今やっと腑に落ちる。なるほどなあ、と感心してしまった。
最初に季語でつまづいたぼくとしては、最後に楸邨の季語についての考えを今井さんの文から引用しておこう。「季語は店ざらしの商品であり、死んだ陳列物に過ぎません。そんな季語をそのまま頼りにしようものなら、私の生きた時間ではなくなってしまう。私を借りて現れてきた歳時記の亡霊になり果てます」。なんという季語への激しい思いだろう。この怒りにも近い激しさが、そのまま今井聖の俳句への思いなのだと痛切に感じた。