「ユー・チューブ」という動画サイトがある。世界中から動画が自由に投稿できて、見る側も自由にこれを視聴できるという画期的なメディアだ。一時期、これにはまって、昔の歌謡曲や、テレビドラマをウハウハ言いながら見まくっていた。いま、「歌謡曲」と書いたが、J・POPというインチキくさい名称になった時、歌は薄い同年代のみに共有されるものになり、茶の間で家族全員が口ずさめる歌は消滅してしまった。
画像の悪い私蔵のビデオテープで投稿された、かつての歌謡番組を断片的に視聴していると、その画像の悪さゆえに、劣化しないハイビジョンからはうかがえない、少し酸化した記憶がビビットに甦ってくる。なかでも伊藤咲子「乙女のワルツ」には泣いた。好きと言えずに、花を摘んで願いをかけ、しかし恋に破れ、去り行く人を駅のホームの片端から見守る「つらい初恋」。五十過ぎの酸化した男が「乙女のワルツ」って! しかし、乙女の純情に心が動き、繰り返し見たのだ。作詞は阿久悠、作曲は三木たかし。伊藤咲子は「スター誕生」から生まれた歌手だった。デビュー曲は「ひまわり娘」。一九七四年のことだった。
歌謡曲の黄金時代を一九七〇年代と規定するなら、それを牽引したのは、間違いなく作詞家の阿久悠だ。歴代作詞家のシングル総売上げ枚数ランキングにおけるぶっちぎりの一位。「ピンポンパン体操」と「UFO」と「北の宿から」が同じ作者、というのがすごい。二〇〇七年に七十歳で逝去。現代日本の風俗流行文化史、精神史を書くとき、阿久悠の名前ははずせないだろう。
『夢を食った男たち』は副題が「『スター誕生』と歌謡曲黄金の70年代」となっている。「スター誕生」は、一九七一年十月から日本テレビ系列で始まった歌手スカウト番組。最初は萩本欽一が司会をし、司会者を変えながら十二年間続いた。森昌子・桜田淳子・山口百恵の「中三トリオ」を筆頭に、ピンクレディー、岩崎宏美、石野真子、小泉今日子、中森明菜、新沼謙治などがこの番組で発掘され、スターとなった。
「スター誕生」誕生から企画に関わったのが阿久悠で、先に挙げた歌手たちのデビュー曲の多くが、阿久の手によるものだ。本書は、番組が作られていく過程の裏話から、阿久が新人歌手たちの才能をどんなふうに発見し、売り出していったかが書かれている。「中三トリオ」デビューを高一のときに目撃し、最初の五、六年を熱心に見た者としては、どのページもおもしろくってしかたがない。
まず「スター誕生」が七一年に生まれたいきさつ。六〇年代の芸能界はナベプロ全盛で、いわばこの一社が歌謡界を牛耳っていた。日テレには「紅白歌のベストテン」という歌番組があったが、裏でナベプロ制作の歌番組が作られることになり、歌手を貸さないと言い出した。有名歌手の供給を断たれれば、歌番組は不可能となる。強硬なナベプロと日テレは全面戦争となる。そこで「貸さないというなら、こちらで作るまで」と見栄を切って始まったのが、新人歌手発掘のスカウト番組「スター誕生」だった。
出場者募集の予選に際して、阿久の方針は「のど自慢はやめような」「できるだけ下手を選びましょう」ということだった。阿久の主眼は「光る」鉱石を見つけること。それは「うまいという技術を凌ぐことがある」と考えていた。のちに第一回本選で、十三社からスカウトを受けた森田昌子(本名)の第一印象は、「何一つ光るものは持っていなかった」十三歳。ところが「ジャガイモの花」のような少女が歌い始めると「会場のざわめきを鎮めてしまうだけの力があった」。歌手・森昌子誕生の瞬間だ。
阿久はこの少女に「せんせい」という曲を書く。ホリプロのマネージャー・市川義文が歌を聞いて阿久に言う。「桟橋で先生を見守る女の子なんて、いますかねえ」。「まず、いないだろうな」と阿久。阿久はこうも書く。同じ年に山上路夫が小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を作詞し、そこで「父さん 母さん 大事にしてね」という驚くべきフレーズを書いた。「桟橋で先生を見守る」はその双璧であろうと。たしかに、両者とも素人ならぜったい書かない。あまりに現実離れしているからだ。プロはそれだからこそ書く。歌の世界だから許される仮構の真実を阿久は作り出した。
このホリプロの市川も「夢を食った男たち」の一人。「せんせい」売り出しのとき、ポスター五百枚を都内の要所に張り出し、自分でぶら下げて歩いた。あまりに素人くさい森昌子の髪型も変えた。ちょうど一九七二年に冬季オリンピックが札幌で開催され、フィギュアのジェネット・リンが愛くるしい笑顔でスターとなる。これにあやかり、森の髪型も似せたショート・カットに。ところが「ジャネット・リンのつもりだったのに、タワシみたいになっちゃって」と市川。しかし、阿久はこのタワシヘアーが「アイドルにした一つの因」と断言するのだ。
「スター誕生」という番組を入口に、巣立っていく十代前半から半ばの少年少女(本書で言及されるのはほとんど少女)を、作詞、作曲、ディレクター、マネージャーなど大人の男たちが、真剣なまなざしで関わっていく。それが「歌謡曲」というステージでの「夢作り」だった。桜田淳子、山口百恵、伊藤咲子、岩崎宏美、ピンクレディーなどが、みるみる間にスターとなっていく陰で、彼女たちを応援し、支えた男たちがいたのだ。
一九七七年に、まだ決定的な権威のあった日本レコード大賞作曲賞を受賞した三木たかし。その年、阿久とコンビで岩崎宏美のために「思秋期」という名曲を作る。その歌唱力は「スター誕生」に「良心のイメージを与えることになる」と評された彼女が、この歌のレコーディングのとき、何度も泣いて中断したという。「岩崎宏美自身の何かと重なるところがあったのか」と阿久は推測する。阿久が亡くなったとき、追悼番組で、岩崎を始め多くの女性歌手が、「なぜ阿久先生は、わたしの気持がこんなにわかるのか」と語っていた。
それはいくつもの機会と、時代的背景と、多くの才能が邂逅した時に許された奇跡のようなものであったのかもしれない。その時代にどっぷり流行歌を聴いて育った私は、この本を読みながら、つくづく一九七〇年代の不思議な輝きを思い出すのだ。阿久と都倉俊一コンビが生み出した傑作、ピンクレディーが一九八〇年に解散。このとき、男たちが追いかけた「歌謡曲」というステージの灯も消えた。