そこにいくと、小島さんの主張は旗幟鮮明だ。
まず、年代や人名。息子に正確な暗記は必要ないと語る。
覚えていますか。「いい国 つくろう 鎌倉幕府」。
源頼朝が征夷大将軍に任官した1192年に、鎌倉幕府が成立。
はたして、そうか。現在は、諸説があるという。ひとつは、頼朝が鎌倉入りした1180年。ついで守護・地頭を設置された1185年。朝廷から東国支配を委譲された1183年も有力だ。義経、新宮十郎行家を追捕するため全国の警察権を握った年が最適だ。いや、主要な政治機関の門注所・公文所が設置された年だ・・・。
「要は、12世紀の後半に成立したと頭にあればいいのです」
蛇足だが、頼朝は後白河法皇の死後に、すぐに念願の征夷大将軍に就任した。最後まで頼朝の昇進に反対した後白河がはやく死去していれば、幕府はもっと前に成立したことになる。歴史とは、偶然の所産でもある。
そう、肝心なのは、年代ではなく中身なのだ。鎌倉幕府が創設された歴史的意義とは、なにか。頼朝は、なにを目指していたのか。武士の時代は、いかにして興ったのか。
その流れを整理し、いま自分がどこに立っているのか、しっかりと見つめることが大切だと小島さん。
さらに、歴史の記述者の問題も提起する。
たとえば、アテルイは「反乱者」なのか。およそ千年前に、奥州を治めていた王・アテルイ。彼は京都の政府への帰属を拒み、「天皇に歯向かった」罪により、天皇の軍によって殺害される。息子の歴史の教科書は、これを「反乱」と記載する。しかし、本当だろうか。もともと、天皇の支配が及んでいなかった土地だ。後発の権力者がやってきた。これに抵抗することが「反乱」なのか。その土地を治める正当性は、アテルイにはなかったのか。
「日本史」は京都、鎌倉、江戸といった、時の政治の中心地からの視点でまとめられているにすぎない。勝者から敗者を描くと、ほとんどが擬似アテルイになってしまう。
敗者、弱者、被支配者からみた歴史も、またひとつの歴史ではないか。
「沖縄から見た日本の歴史」は、ずいぶんと異なったものになるはずだ。奥州平泉には平泉の、対馬には対馬の、それぞれ独自の「日本の歴史」があったはず。そう小島さんは指摘する。
最後にひとつ。李氏朝鮮時代、朝鮮には大八車などの車がなかった。車輪づくりに必要な木を曲げる技術がなかったからだ。だから、樽もない。液体を遠方まで運搬するには、壺を使った。
こうした事実から、なにが見えてくるか。李朝の民衆支配の実態だ。ガチガチの儒教一辺倒で、技術革新を極端に嫌い、反近代の観念で500年統治してきた。その結果、あれだけ英邁な民族が、おそるべく停滞をきたし、日本の植民地となってしまった。
日本の首都は、京都だと主張する研究者もいると小島さん。明治2年に、明治天皇が京都の御所を出て、旧江戸城に入ったまま。以来、四代の天皇がいわば、東京に仮住まい。遷都(都を替えること)はしたが、正式に奠都(都と定めること)がなされていないからだ。京都の人が「天皇さんをちょっと東京に貸してまんねん」というはずだ。
ここに何を感じるか。わたくしなら、日本人の国家運営のいい加減さを思ってしまう。
先のアジア太平洋戦争の戦後賠償、責任の追及も、そうだ。国号もニッポンとニホンの二本立て。ニッポンとニホンの、どちらにも法的根拠はない。
良くも悪くも適当にお茶を濁してやりすごす。理詰めにならない。なあなあが、「この国の叡智」なのかもしれないなあ。
中国の文学者・巴金は、看破した。「過去を忘れない者だけが、未来の主人公になれる」と。過去に学ぶことで、未来に向けての知恵が得られる。
歴史の面白さとは、こうした史実の堆積からエキスを抽出することにあるのだろう。その圧搾装置として、本書はある。