空想は体力を消耗させる。『さかしま』の主人公のデ・ゼッサントは空想に専念しようと田舎にこもるが、体力と神経をすり減らしてしまい、またパリに戻ることになる。これはその間のできごとを記している。できごとといってもたいしたことではない。修道士のような生活をめざして購入した屋敷の内装をどうするとか、光沢のある東洋の絨毯を引き立たせるために部屋で飼っていた生きている亀の甲羅に、宝石をちりばめた金の鎧を着せるとか、村の子供たちがパンの奪い合いをしているのを見て、自分も食べたくなって召使に買いに行かせたりとか。
おもしろいのはデ・ゼッサントが本物の花よりも造花の方が美しいと感じる人物であること。そして究極の花は、ただ本物の花に似せた造花ではなく、贋の花を模した自然の花であること。その逆転ぶりに、『さかしま』なのかな、と思った。ところがデ・ゼッサントは何にでもすぐに興味を失ってしまう。すぐに花はしおれてしまい、亀は死んでしまう。召使に買いに行かせたパンにも結局食欲がわかず、次第に神経症が進むと、自分で決めた壁の色にも倦怠を感じる。わざわざ寝室に飾った「宗教的迫害」の残酷な版画にも刺激を感じなくなり、医者の勧めで、ついにはパリの普通の暮らしに戻ることになる。
デ・ゼッサントがこの本の中で述べる大勢の作家や画家について何も知らなくても、読んでいて退屈することはない。それは彼のような人物が現代にもいて、彼のような考え方をぼくもおもしろいと思うからだろう。まず彼は室内装飾に頭をしぼる。外からの光を遮断して、まったくの人工的な空間を作ろうとする。それは彼が、自然よりも人工物が勝っていると考えているから。19世紀という時代は、世の中全体がそういう考え方だったのかもしれないが、彼は自然の最高の創造物である人間の女よりも、人間の発明した蒸気機関車の方がはるかに美しいと力説する。そして何かきっかけになるものさえあれば、想像でどんなところにも行けると説く。そんな彼の考え方はなんだか現代美術のようでもある。大好きなボオドレエルやマラルメの詩は、自分好みの紙に印刷しなおして、豪華な表紙をつけて、この世にたった1冊しかない自分だけの本にする。たくさんの香水を使い分け、匂いと視覚を結びつけて、空想の自然の中で遊ぶ。様々なお酒の味に音階をつけて、自分の心の中でシンフォニーを奏でたりする。
彼には文学作品や絵画の中にしか友だちがいない。元々貴族の出で、社交界や文学仲間の集まりにも顔を出したが、誰とも友だちにはなれなかった。唯一気を許すことができたのは娼婦たちだが、そんな遊びにもやがて飽きてしまう。貧乏人には哀れみを持ち、金持ちを軽蔑している。最終的に聖職者とは対等になれそうな気がするが、教会の腐敗ぶりが彼に二の足を踏ませる。結局彼はアウトサイダーとして生きるしかなかった。だが、それには彼の神経はか細すぎた。
一度彼はロンドンまでの旅を試みる。荷物をまとめ、列車に乗ってパリに出るが、そこで大勢のイギリス人たちを見かけると、ロンドンまで行かなくても、これでイギリスに行ったことと同じではないか、とまた列車に乗って帰って来てしまう。そんな彼を書斎のエドガア・ポオやボオドレエルが温かく迎えてくれる。
翻訳ものの本は読みにくいことが多い。だけど澁澤龍彦の訳したこの『さかしま』はとても読みやすい。すべての人物名には訳者によるていねいな註がつけられている。それだけでも大変な時間がかけられていると思う。仙台文学館で開かれた澁澤龍彦の回顧展で見てこの本が欲しくなり、河出文庫で出ていることを知り、あちこちの本屋をさがしてやっと見つけた。文庫を手にして最初に目に飛び込んできたのが、表紙カヴァーのオディロン・ルドンの版画だった。最近ニューヨークの近代美術館でルドンの展覧会を見たばかりだったので、その偶然に驚いた。
偶然といえばもう一つ、第一章にデ・ゼッサントが主催した喪の宴が出てくるが、それと同じことをぼくの妻の写真展で体験したことがある。それはオープニングパーティでの出来事で、妻の白黒写真に合わせて、スタッフが白色と黒色だけの料理をつくってくれたのだ。そんな風に、加工することに喜びを感じるところが、『さかしま』なのだと思う。