いやあ、どいつもこいつも実に酷いですね。いずれのケースでも、コミカルかつグロテスクな人間模様を見て取ることができよう。しかしここで読者が肝に銘ずべきは、彼らの利己主義が、実は誰もが抱いている身近なものであることだ。人間誰しも、自分を棚に上げて、誰かを馬鹿にしがちだ。要らぬ見栄を張るが、責任からは逃げたい。悪いことは他人のせい。嫌なことは後回し。皆さんも、ちょっとぐらいいいか/たまにならいいかと、ゴミを出す日じゃないのにゴミを捨てたりしたでしょ? 虫の居所が悪いというだけで、仕事や家事の手を抜くことだってあるでしょ?
本書は、このような、法的には罪にも問えないちっぽけな悪事の集積が、大変な事態を生み出す顛末を描いているわけである。うまいと思うのは、章題でカウントダウンすることで、緊張感をじわじわ高めているところだ。ネタバレを避けるために詳述しないが、幼児を襲う奇禍の正体は、おぼろげながらもかなり早い段階から予見できる。そのため、「取り返しの付かない事態」の準備を作者が着々と進めているのが、手に取るようにわかってしまうのだ。こうも言えるだろう。作者は事件への過程を描く中で、事件の伏線をリアルタイムで張り巡らせていく。読者はそれを、まざまざと見せ付けられるのである。これは色々な意味でたまらない。少なくとも第「0」章に至るまでは、良い意味でヤな感じの読書が楽しめることを保証したい。
というわけで、幼児が死ぬところで話が終わっても、『乱反射』はかなり読ませる佳作になっていたはずだ。しかし本書はこの後、幼児が死んで以降に、さらに深みのある話が続くのである。
幼児の両親は、自分の子の突然の死に納得が行かない(当たり前であるが)。なぜ自分の愛息は、死なねばならなかったのか。特に父親・聡は、自身が新聞記者であることもあって、背景に何かあるはず、何かないとおかしい、そうでなければ我が子があまりにも不憫だと切実な感情をもって事件の背景を調査する。しかし調べても調べても、人々の、ほとんど無意識の「ちっぽけな悪事」しか出て来ない。これでは社会的に制裁を加えることすら難しいではないか。愕然としつつも聡はなおめげずに、本人たちに直接対面し、事故と彼らの行動の因果関係を伝えて、糾弾する。
この結果、幼児の死の原因を作った人々は、自分の行為が何をもたらしたか自覚する。これはなかなか面白い展開である。自覚のないまま、登場人物が事故・事件の原因を作ってしまう、という話は、実はそれほど珍しくない。しかしほとんどの場合、彼らは自分が事件・事故の片棒を担いでいたことを最後まで知らないことが多いのだ。ところが『乱反射』は違う。知ってしまうどころか、被害者の父親(広義では、この父親も被害者自身に他ならない)から直接、非難されるのである。
この指弾を受けての各人の周章狼狽と、それを通して父親が徐々に形成していくある種の諦念が、本書最大の読みどころであり、本書の真のメッセージもここにこそ込められている。
ノワール小説やサスペンス小説であれば、この後に幼児の親がブチ切れて「加害者」を殺して回る、などといった更なる波乱があってもおかしくない。しかし『乱反射』において、貫井徳郎の筆は、ここで止まる。いや、あえて止めたと言うべきだろう。派手な展開はエンターテインメント性を高める反面、本書で提起されたような「ちっぽけな悪事」を濃やかに拾うには、あまりに大味である。貫井徳郎はこれを避けて、あくまでも身近でより現実的で、ゆえに全くスカッとしない苦い落着を用意し、真のテーマに肉薄するのである。
果たしてこの物語に救いはあったのか。悲劇を避けるためには何がどうあるべきだったのか。扱われている問題は(幼児の死という結果はともかく)非常に「ありがち」なだけに、読者全員が無関係ではいられないはずである。モラルの欠如が叫ばれる現代社会において、一度とっくり考えてみてもいいテーマと言えるだろう。
というわけで、本書は「黒貫井」を強調しつつも、後半は一転して、卑近であるがゆえに重いテーマについて、「本当にこれでいいのか」と読者に強く訴えかけてくる。世の中なんてこんなものと皮肉に嘯くような前半と、次第に真面目な問いかけが浮かび上がってくる後半の対比は、非常に鮮やかで素晴らしい。貫井徳郎の新たな代表作として、広くおすすめしたい。