さて、加藤氏が「取材学」の実践編として最初に挙げているのは「図書館を使う」ということだ。どんなに特殊なことでも、たいていの事柄は過去に誰かが調べ、文字にしているものだ、と加藤氏は言う。その通りだろう。たかだか100年しか生きられない人間にとって、ほぼすべてのことは先人の遺産である。今のすべてに過去が織り込まれている。生体としてのヒトが遺伝子で世代を結ぶように、書物は異なる時空の文化をつなぐ。書物が人間社会の遺伝子だとすれば、文字はDNAであり、図書館は染色体を畳み込んだ細胞核である。
図書館で目当ての本を探すのは、特定の病気を引き起こす遺伝子が何番目の染色体に存在するかを突き止めることよりは易しいと思われる。しかし、取材者が必要とするのは、特定の題名の本ではなく(それなら探すのは簡単だ)、特定の情報を含んだ本の集合である。
戦前、社会主義者を検挙しようとした警察が家宅捜索に入って蔵書を調べたが、どの本が社会主義について書いた本か分からず、『昆虫の社会』と題された本まで押収していった、という(今でこその)笑い話がある。その愚を犯さないために、加藤氏は「日本十進法」(というと「?」の人も多いだろうが、200台が歴史、300台が社会科学……と図書館でおなじみのあの数字)の見方をはじめ、専門書の森に分け入る前の羅針盤となる辞書・事典のたぐい(加藤氏いわく「リファレンス・ブックス」、代表的なものが百科事典)の活用法などを、かんで含めるように丁寧に紹介している。
もとよりこの本が、基本的に自分の研究課題を見つけ、論文をまとめ上げるために必要な情報をいかに集めるか、を課題とする学生(学者の卵)を対象に書かれたことを思えば、「取材」が図書館を端緒にするというのは当たり前かもしれない。が、私には図書館での調べものを「取材」の観点でとらえるというところが新鮮に映る。というのも、もし新人の新聞記者が(本が書かれた1975年当時も同じだと思うが)上司や先輩から取材を命じられて、図書館で熱心に百科事典を引いていたりしたら、きっと「腰が重い」としかられることだろう、と思うからだ。
記者は「人に会って話を聞く」ことこそ取材であると、芯から刷り込まれている。そのために「足で稼ぐ」ことが奨励される。「腰が重い」というのは、記者にとって最大の侮蔑表現だ。おまえは失格だ、と告げられるのに等しい。おそらくは新聞社内都市伝説だろうが、大阪社会部の泊まり番は第一報を受けてすぐに現場に飛び出せるよう、七つ道具が入ったショルダーバッグを肩にかけ、電話の受話器に手を置いて立ったまま待機していなければならない、なんて話を聞いたことがある。
事件事故の現場に最大限早く駆けつけることは当然必要だが、それだけに何でもかんでも「とにかく行ってこい」式の新人教育が幅を利かすことになりかねない。例えば、大地震が起きると「専門家のコメントを取れ」と言われる。大学の地震学研究室に取材をしろという意味だが、取材を指示する側はその記者がプレートテクトニクスに関する知識を持っているかどうかには、あまり頓着しない。分からないことを聞くのが記者の仕事だ――ということである。
だから下手をすると、不運な大学教授は新聞、テレビ、週刊誌……と入れ替わり立ち代わりやって来て、判でついたように同じ質問をする記者連中に地震のメカニズムを一から説明して疲労困憊するはめになる。図書館に一日こもって勉強しろとは言わないが、せめて「太平洋プレート」の意味くらいは理解できるようになってから突撃取材を試みるべきだろう。