文字の中から声が聞こえると、ぼくは詩を感じる。詩は声によってもたらされる気がする。歌の中から声が聞こえたときにも、ぼくは詩を感じる。歌には声の聞こえないものも多いから。たとえばディランの演奏がどれだけひどくても声を感じるのは、ディランの歌の中に声を突き出してくる詩があるからだと思う。その詩の手はぼくの首をしめる。伊藤比呂美さんにもそれを感じる。
伊藤比呂美さんの『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』を読んでいる。実はまだ読み終えていない。まだ四分の一ほど残っている。でも読み終える前にぼくはこれを書きたくなった。人は何かの拍子に書きたかったことを忘れてしまう。トイレにいってすっきりしたら、書きたかったことも一緒に流してしまった、なんていうこともある。覚えていられる間に書いた方がいい、と思って、今は読むのを中断しているところ。
伊藤比呂美さんの暮らしは前にテレビで見たことがある。多和田葉子さんがカリフォルニアの伊藤さんの家を訪ねる番組だった。二人ともタイプは違うけど魅力的な人たちだった。外国の人と結婚をしてカリフォルニアに住み、年に何回もアメリカと日本を往復しているという伊藤さんの暮らしが知りたくなった。全部が本当ではないかもしれないけど、この『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』にはそのことが書かれている。
誰かがこんなのは詩なのだろうか、と書いているのを読んだことがある。ぼくも最初はそう思った。だいたいぼくは行分けしていないと詩かどうかわからなくなる。だけど詩が暮らしの中にあることを思えば、これは詩なんだと思う。暮らしを書いているわけではない。暮らしの中にある詩を書いている。もしかしたら、暮らしを書いていると詩が出てきてしまうのかもしれない。とにかく読んでいておもしろい。ときどき暮らしにも詩にも関係のないような一行に出会う。そのふんわかとした現実感は伊藤さんの詩の部分なのだろう。そして行分けしていれば詩なのかどうかもわからなくなってくる。
詩は日常の中の立ち止まってしまう部分だと思う。行くのがためらわれるとき、そこに何か引き出しが欲しくなる。引き出しは言葉の種を植えるプランターである。伊藤さんは言葉の種を植える係りだ。飛行機の中でもカリフォルニアでも、伊藤さんは立ち止まり種を植える。熊本から山口まで、小型車を運転しながら種を植えていく。種を植えることは天性の仕事のようだ。ぼくはその行為を読んでいく。その種を植えるという行為の中で、夫や両親がいとおしいみみずのように描かれる。生きているものはすべて、言葉を通して形を持って現れる。その迫力に圧倒される。