ロブ=グリエ作品で、もっとも知られているものは、小説ではなく、映画だろう。ロブ=グリエが脚本を書き、アラン・レネが映像化した『去年マリエンバートで』だ。正直なところ、何度見返しても、よくわからない映画だが、もちろん、わからないからこそ、面白いのだ(もっとも単純なレベルでの観賞法としては、デルフィーヌ・セイリグの美しさに、ただただ圧倒されることをおすすめする)。
よくわからない理由は、現在と過去、現実と記憶が、さまざまなレベルで混在しているからだ。あるとき、デルフィーヌ・セイリグの衣装を手がかりに、どの場面が「現在」で、どの場面が「現実」なのかを同定しようとしたことがある。こうした試みは「全体が唯一の、決定的な意味、すなわち真実」(ロブ=グリエ)があるという仮定の下に行われる。つまり、佳きミステリ読者(!)である評者は、無意識のうちに、「真相」を追い求める探偵の真似事をしていたわけだ(しかしロブ=グリエ世界においては「真実」などない)。
ミステリやSFなど、ジャンル小説への偏愛を隠さない恩田陸は、映画『去年マリエンバートで』(および、そのテクスト版、つまり、ロブ=グリエ言うところのシネ・ロマン)に着想を得て、長編『夏の名残りの薔薇』(文春文庫)をものしている。杉江松恋は「本格ミステリという「閉じる」小説形式のルールを遵守しながら、同時に「閉じない」モチーフを小説内に定着させるという、極めて曲芸的な目論見によって書かれた作品」と指摘したが、その言葉通り、アクロバティックな手法が味わえる傑作である。
ちなみに、ロブ=グリエは1981年に『ジン――ずれた敷石のあいだの赤い穴』という小品を書いている(集英社ギャラリー「世界の文学」9巻収録)。これは、もともと「中級フランス語を修めるアメリカ人学生を対象に、フランス語の文法事項を《生成因子》とした推理小説」(平岡篤頼)として書かれたテクストだったらしい。それもあってか、ロブ=グリエ作品にしてはわかりやすいが、その分、ちょっと物足りない印象も受ける。短めの中編といった分量も関係しているのだろう。逆に言うと、ロブ=グリエ入門編としては、うってつけかもしれない。
では、もっともハードコアなロブ=グリエ作品は何か。現在、手軽に入手できるものとして、最晩年の怪作『反復』をおすすめしよう。この作品は、あらゆる意味で、ロブ=グリエの集大成であり、老いてますます盛んというか、精緻なデタラメとでも言うべき前人未到の領域に達している。作者は巻頭で「不正確なあるいは矛盾するディテールをいつまでも小うるさく告発したりしないでほしい」と読者にあらかじめ釘を刺しているが、この図々しさときたら!
『反復』の舞台は第二次世界大戦後のベルリン。隣国から送り込まれたスパイの五日間の行動が描かれる。内容は、「謎の殺人事件あり、煽情的なうら若い少女売春あり、網をはりめぐらした秘密組織や警察と風俗業者の癒着があり、サドマゾ的な拷問があり、裏切りや処刑があり、最後も連鎖的な殺人と偽装で終わる」(平岡篤頼「訳者あとがき」)。
もはやここに、ヌーヴォー・ロマンの法皇の面影はない。徹頭徹尾、安っぽい展開が繰り広げられるのみ。もちろん、ロブ=グリエは確信犯だ。なにしろ、60年代後半には、『快楽の館』や『ニューヨーク革命計画』といった奇妙な小説を(おそらく嬉々として)書いていた作家なのだ。これらは、あるときはB級活劇であり、またあるときはポルノグラフィであり、さらにはSF(スペキュレイティヴ・フィクション)でもあるような、デタラメきわまりない(それゆえ魅力的な)作品である。そう、『反復』は、ある意味、自作のリメイクなのだ。
例によって、事態は錯綜に錯綜を重ね、読者は語り手が誰なのかすら判別できない状況に投げ込まれる。そのうえ「本文」に対する「註」が、自らの分をわきまえず(?)、次第に「本文」に対し、批判の矢を向けるようになっていくのだから、タチが悪い。『反復』は書き割りの前で繰り広げられるスラプスティックの様相を呈し、最盛期の筒井康隆を彷彿とさせる世界へと突入していく(ちなみに、70年代、筒井はロブ=グリエの『新しい小説のために』[新潮社、絶版]を絶賛していた)。
ロブ=グリエは2008年に没した。2001年に20年ぶりの小説『反復』を発表した後、死の直前、2007年には『ある感傷的な小説』(仮題)を刊行。内容は「小児性愛のタブーに触れるあからさまなポルノグラフィ」(浅田彰「あるポルノグラファーの死」)らしい。ロブ=グリエらしい幕切れである。