生きていることは膀胱を空にすること、みたいな一行がこの本の中のどこかに出てきた。まさにその通りだとこのごろトイレに行くたびに思う。膀胱は時間を測る砂時計のようなもの。膀胱を空にする必要がなくなれば死んだことになる。そんなことを口にするのはホームレス詩人のウィリー。ウィリーは詩を書く以外には何もすることがない。ただクリスマスにはサンタクロースの格好をして、希望と元気を広めて歩く。あるときいきなりテレビの画面に現れたサンタクロースから啓示を受けて以来、それはウィリーの生きがいになっている。
ミスター・ボーンズは7年ぐらいウィリーに飼われている犬である。どんなに落ちぶれていても、ウィリーはミスター・ボーンズにとって最高のご主人様だ。ところがそのウィリーが今病気で死にかけている。死ぬ前に高校時代の英語教師、ミセス・ビー・スワンソンに、彼が23年間かけて書きためた放浪詩篇などを託したくて、ニューヨークからボルチモアまでミスター・ボーンズとやって来た。ウィリーの詩はまだ一度も出版されたことがなかった。自分を高く評価してくれた高校時代の教師に、すべてを託してから死にたいと思ったのだ。
ティンブクトゥとは来世のことだ。「この世界の地図が終わるところで、ティンブクトゥの地図がはじまる」とあるから、そこは地続きのようにも思えるが、「砂と熱から成る巨大な王国、永遠の無が広がる地を越えねばならない」という。そこでぼくは、ずっと前に読んだアフリカの作家エイモス・チェツォーラの「やし酒飲み」を思い出した。アフリカでは、人は死後すぐ近くの村に行くという。その物語では、あの世がこの世と地続きなのが新鮮だった。
獣には獣のティンブクトゥがあるにしても、人間の最良の友である犬は、主人が天に召された後もずっとその人間のそばにいるべきだとミスター・ボーンズは考えている。ウィリーが死んだ後、ミスター・ボーンズは新しい飼い主を求めてさまよう。アメリカでは野良犬が生きていくのは不可能に近い。野犬がのびのびと街中で暮らすタイなら、こんな物語は生まれなかったかもしれない。だがアメリカでは見つかれば捕獲されて、たぶん殺されてしまうだろう。夏休みの間だけ、中国人の男の子にこっそりと飼われ、中華料理店を営む犬嫌いの父親に見つかって、ヴァージニア州のはずれまで駆け続けた後、ミスター・ボーンズはウィリーとティンブクトゥにいる夢を見る。そして「一度ティンブクトゥに行けたのなら、もう一度行けるかもしれない」と考える。そう考えただけで慰められる。主人をなくした犬は本当に孤独である。
裕福な家庭に拾われ、去勢手術され、おそらくそれが原因で病気になって、もう死ぬかもしれないとわかったとき、ミスター・ボーンズはウィリーのいるティンブクトゥに行く決心をする。ウィリーがまた夢に現れて、「君は入れてもらえる。もう決定済みだ」と太鼓判を押したからだ。ミスター・ボーンズはウィリーに育てられ、ウィリーと旅をした。死んでもウィリーと一緒なのが当然と考えていた。「冗談はやめてくださいよ、ご主人。こういうこと冗談にされたら、僕、耐えられませんよ」というミスター・ボーンズの口調からは、彼が犬だということがもう感じられない。「お前は賭け値なしにリアルだよ」というウィリーの言葉に、猫しか飼ったことのないぼくにはわからない、人間と犬との友情をこえた関係を見てしまう。
1999年にアメリカで出版された「ティンブクトゥ」では、黒くて毛の短い犬の顔の写真がカヴァーに使われていた。しっぽが細い猟犬で、いかにも放浪者の犬といった感じ。ところが今回再読した日本版ではそれが、かわいらしい毛のふさふさした小型の犬に差し替えられている。芝生か絨毯の上でしか遊んだことのないような感じだ。でもぼくは日本語訳で読んでいるときも、ミスター・ボーンズは黒い犬だと思って読んでいた。