「またその手の話かよ」。そう思いながら、最後まで面白く読まされてしまう作家というのがいる。偉大なるワンパターン、最強のマンネリズムというべきか。西村賢太はいま、さしあたってそんな作家の最右翼だと思う。
2006年に初の著作『どうで死ぬ身の一踊り』を上梓して以来、最新刊の『小銭をかぞえる』が4作目、一貫して、貧乏と金策と女への執着と痴話喧嘩と暴力(ドメスティック・バイオレンス!)の世界を低徊し続けている。どこそこへ支払う金がない、家賃を滞納してどうにもならない、などなど貧困が常態であって、その解消にあたっては同棲相手の親を泣かす、ほとんど付き合いも途絶えたような古い知人を訪ねて無心するなどは序の口。ようやく手にした金も油断をすればあっという間に酒や性欲の処理に消えてしまい、ために男女間の諍いは絶えることなく、逆ギレが十八番で、いよいよ女が逃げ出そうとすれば今度は土下座……。ま、平たく言って最低なんです、主人公がね。
西村賢太という人は「現代では稀有な私小説作家」と呼ばれている。もっとも「私小説」なる概念は日本の文学の世界でほとんどコンセンサスを得られたことがないから、「自分の生活、生きざま(ちなみに「生きざま」って言葉は角田光代さんがこの世でいちばん嫌いな言葉だそうです)を脚色なくまんま小説に書いている人」くらいの意味で言われていると思う。いずれにしても、その「私小説作家」である西村氏の実際の生活がどうかは別にして、この作家のプロフィールには、必ず、ぬかりなく「中卒」の二文字が記されていて、この時代に文筆を生業とする人としては突出したその「低学歴」ぶりは、「ム、なんかあるかな」と、(勝手に)人=読者をして想像せしむるに十分なことは確かなように思う。
そこに拍車をかけてこの作家を「私小説」のほうに押し込んでいる要因として、藤澤淸造(せいぞう、「せい」の字は旧字のため携帯電話ではブランク表示となっておりますのでご了承ください)という先行作家の存在がある。藤澤淸造。知ってます? 「読んだことがあるよ」という人がいらしたら、それは真っ赤な嘘か、日本にせいぜい500人くらいしかいない筋金入りの文学好き、もしくは石川県七尾市辺の在住の人か、そのいずれかでしかないはず。藤澤淸造は、石川県の貧農の家庭に生まれ、18歳で上京。数々の職を転々としつつ文学を志し、生前に刊行した唯一の著作『根津権現裏』は島崎藤村や田山花袋から高く評価された。石川県ということでいえば、徳田秋声や室生犀星の同時代人であり、関東大震災のルポルタージュを書いたり、映画会社に務めたこともあったらしい。破天荒な人で、商業誌からの依頼が途絶え始めた晩年は、女遊びなどのせいで性病が慢性化、そのために精神を病んで、最後は芝公園の中にある六角堂の中で凍死するという、壮絶な人生を歩んだ人である。
西村賢太は、この藤澤淸造という破格の作家にとことん惚れ込み、不肖の弟子を自認、『藤澤淸造全集』を刊行することがライフワークというから徹底している。しかし、生前に1冊しか出していない作家が全集とは……そう、西村賢太は、あらゆるルートを辿って、藤澤淸造の直筆原稿や書簡類を集めまくっているのである。報道によれば全集は全7巻の予定で、刊行に要する費用の一切は西村賢太個人の負担というから、まったくもってすさまじい。下種の勘ぐりを承知で言えば、西村賢太という人が生活において実際に貧窮しているとして、その主因はまさに師と仰ぐ藤澤淸造の作品を世に問うという、その志のため、ということになる。
さて、このあたりの背景をアタマに入れた上で最新刊の『小銭をかぞえる』を読んでみる。まずもってなんという不景気なタイトルだろう。中篇二篇が収録された本だが、もう一篇のタイトルは「焼却炉行き赤ん坊」だから、こっちはもっと酷い。あ、もっともこのタイトルから想像されるグロテスクもしくはスプラッターなものではないのでご安心を。それどころかこの小説、ぬいぐるみの話なんである! ぬいぐるみだよ! その冒頭。
殊更に胸を張って言える話でもないが、私はこれまで女性から、余り、と云うか、殆ど好意や愛情と云ったものをもたれたためしがなかった。