人にはそれぞれの詩人像があるだろう。そのもとにはいつも昔の詩人たちのイメージがある。宮沢賢治みたいな詩人、萩原朔太郎みたいな詩人、中原中也みたいな詩人。谷川俊太郎さんの「詩人の墓」の詩人はそのどの詩人ともちがっている。むしろ谷川俊太郎さん本人に近いかもしれない。たぶん現代では、詩人といえば谷川俊太郎を思い浮かべる人は多いだろう。
ぼくが「詩人の墓」を読んで思い浮かべたのは、ブラジルのコルデルという詩を書く詩人たちのことだった。コルデルというのは紐のことらしい。自作の詩の小冊子を紐で結わえてお祭り広場なんかで売っていたから、そう呼ばれるようになった。主に貧しい人たちが買って読み、文字の読めない人たちもいたという。そういう人たちは小冊子を買って帰って、誰かに読んでもらった。どうしてそこまでして読みたいかというと、コルデルの詩は田舎の人たちにとって、世の中の出来事やロマンスなどの情報源になっていたから。だからコルデルの詩は朗読されて、耳から入ってくる。
ぼくが「詩人の墓」を知ったのも朗読によってだった。2006年に横浜で開かれた「LIVE! no media 2006」で谷川俊太郎さんはこの詩を朗読した。長い長い詩だったけど、物語はするするとぼくの頭の中に入ってきた。時間がたってもその言葉は頭から消えなかった。一度聞いただけの詩が、どうして頭から消えないのかわからなかった。
「LIVE! no media」はぼくと妻のユミが2000年ごろから主催してきたミュージシャンによる自作詩の朗読会である。最初はぼくの歌うたいの仲間が出演者だったが、途中から谷川俊太郎さんや田口犬男さんといったぼくの親しい詩人も参加してくれるようになった。朗読会の模様は毎回CDや詩集にして残している。「LIVE! no media 2006」は初めてDVDになり、これには谷川さんの「詩人の墓」の朗読も収められている。
2007年春に山口市で開かれた「中原中也生誕百年祭」でも、谷川さんは「詩人の墓」を朗読していた。終演後にコルデルのことを谷川さんにたずねてみたが、谷川さんはブラジルのそんな詩人たちのことは知らなかった。
けれど娘は幸せだった
いつまでも男と一緒にいたいと願った
そう囁くと男は娘を抱きしめた
目は娘を見ずに宙を見つめていた
「詩人の墓」は谷川さんの詩と太田大八さんの絵が奏でる音楽のような本だ。音楽には時間の流れがあるから、詩で物語るのに適している。そのあたりに、この作品への谷川さんの愛情が感じられる。過去を語るにも未来を語るにも、言葉は今この一瞬から発せられる。言葉を常に発するには、今を空っぽにしておく必要がある。そのためには一日中歯をみがいたり、髭をそったりする。詩人を愛する娘にはその空っぽが耐えられなかった。娘は詩人と呼ばれる男の胸をげんこつではげしくたたく。するとあとからあとから、男のどこかに隠れていた記憶が煙のように噴き出して、男の姿はいつのまにかいなくなっている。そうしてこの物語は墓碑銘の刻まれていない墓石のそばに娘がたたずんでいるところで終わる。娘の呆然とした様子が目に浮かぶようだ。ぼくがもしその前を通りかかったら、何も書かれていない墓石にこう落書きするだろう。「詩人の目は宙を見つめていた」と。