霊能力のスーパースター、役小角(役行者)は修験道の開祖であると同時に、実は忍術の開祖でもあった。『隠れたる日本霊性史』によると役行者の出自は国家から公認されていない民間の「優婆塞(うばそく)」という私度僧であったという。この私度僧ということでは、若き日の空海や大仏造営の勧進で有名な行基菩薩も、また念仏聖の空也上人もこうした優婆塞のひとりだった。これらの人々に共通するのは、山岳修行者であり鉱山技術・土木工事・薬草調剤・火薬・製鉄技術を身につけていたという事実である。裏兵法である志能備(しのび)による「忍術」も、修験道を母体とした様々な修行による知識や特殊技能を得て、そこから生まれてきた必然性が感じられる。
永享元年(1434)、七十二歳になる世阿弥は佐渡ヶ島に流罪になる。時の将軍、足利義教の怒りをかったからだと言われているが、その原因も罪状も定かではない。自身は佐渡で著した『金島書』の中で納得できない仕置きを「げにや罪なくて配所の月を見る…」と書いている。そしてこの絶筆・遺書的な意味合いを持つ『金島書』を書いた後、世阿弥は在島二年で忽然と佐渡から消えてしまうのである。
佐渡から女婿の金春太夫禅竹に宛てた「能」の指導に触れた二通の手紙の中で、「芸道の事を書いたこの手紙を金の手紙だと思ってください」と言うくだりがある。読みようによっては、配流先で佐渡の霊性を探る世阿弥が、修験道の探鉱師として佐渡の金鉱脈についても調べていたのではないか、とする著者の指摘も頷ける。
と言うのも、足利家お抱え能楽師であった時も、世阿弥はしばしば大和国吉野の天河神社で能を奉納しており、京都方からは将軍家の動向や資金の提供を含めた南朝側との接触が噂されていたのである。
やや時代は下るが、徳川家康の側近勢力として佐渡・石見・甲斐・大仁などの金銀鉱山や林業開発、一里塚の制定に成果を上げた大久保長安と言う人物像も、著者の「能」との接点からの出自の追跡が面白い。長安は甲州武田家お抱えの猿楽衆、大蔵太夫金春七郎の次男として生まれている。つまりは世阿弥の女婿、禅竹の曾孫にあたると言う。
家康に御領分の山岳地を吟味し、金・銀・銅・鉄・鉛などが出る鉱山開発を提案して、その鉱山経営の実力から佐渡金山奉行を命じられた。
長安は後に大疑獄事件で一族が失脚するが、天下のご意見番の大久保彦左衛門や伊賀者統領の服部半蔵とも姻戚関係でつながるこの人物は、猿楽師でありながらその鉱山知識を始めとする金属精製の特殊技術の深さから、修験道・忍術・能楽と重なり合う興味深い人物である事が判る。
本書は、「能」という歌舞音曲集団が、芸能集団として、また祭祀集団であり技術集団としても重なり合って、かつて歴史の表面に登場した事もあったし、伏流水のように地下に隠れてしまった事もあったが、一貫して日本における精神文化の担い手だった系譜を教えてくれる貴重な収穫ではないだろうか。
読後の印象として、このような「能」の極意を受け継いだ人々は、たとえこの美学が限られた関係性の中での価値観であったとしても、幾多の歴史に耐えて能の奥儀として「秘すれば花」を守り、今日までも脈々と底流で息づいている事が感じられた。能座の発生と関連する大和・伊賀・葛城・河内における地域考証やエピソードにも思いがけない発見があり面白い。
十月までは薪能(たきぎのう)の季節。ぜひ一読をお薦めする。