アグリビジネスが発展途上国で作るのは、輸出用の「換金作物」である。それが農場で汗水たらして働く人たちの口に入ることは、まずない。というよりも、そもそもアグリビジネスにとって、生産するのは食べ物である必要はない。例えば1960年代からブラジルでは大豆生産が、トウモロコシを畑から押しのける形で始められた。日本人にとって大豆は食べ物だが、諸外国では油脂の原料である。金にさえなるのなら農地を使って何を作ろうが、関係ないのだ。
そのことは、前述したようにトウモロコシが今、バイオ燃料として浪費され、トウモロコシを主食としている人たちの口に入らないとか、トウモロコシを増産するために小麦が畑から追いやられている、という狂ったような状況とピタリと重なる。腹の足しにならない換金作物の代表はコーヒー豆だが、日本でも5月に公開された映画「おいしいコーヒーの真実」によれば、トールサイズのコーヒー1杯に客が支払う330円のうち、生産者に入るのは「3~9円」だという。世の中は30年前からちっとも変わっていない。
アグリビジネスは、「食糧は外交の道具」とする先進国政府(特に米国)と密接な関係を保ってきた。というより車の両輪だった。アグリビジネスが発展途上国の農地を自由に使えるように、米国政府は食糧援助を行い、また民間の財団が発展途上国の「優秀な人材」を米国に招いて高等教育を施した。母国に戻ったエリートたちが、米国式の社会・経済システムを率先してまねていくように仕向ける「洗脳」ぶりは、読んでいて恐ろしくなるほどである。
もちろん、米国の食糧戦略は日本とも無縁ではない。この本では日本の農業についてはあまり言及されていないが、米国が生産過剰の小麦を日本に押し付けてきたのは、周知の事実である。1964生まれの私自身、包装に「パンを食べると頭がよくなる」と印刷された食パンを毎朝食べて育った。日本は発展途上国のように、他国の換金作物を作らされるようにはならなかった。しかし、自国の農業を弱らせ、他国の農作物(つまり換金作物)を大量消費する役割を担わされた。その結果が「39%」の自給率なのである。
農林水産省のホームページから「食料自給率の部屋」というところに入ると、外国からの輸入が止まったとき、「国内生産のみで2020キロカロリー供給する場合の一日の食事のメニュー例」というのがある。最近よく引き合いに出されるので、見たことがある人も多いだろう。例えば、朝食は「ご飯茶碗1杯、粉吹きいも1皿、ぬか漬け1皿」、夕食は「ご飯茶碗1杯、焼きいも1本、焼き魚1切れ」、牛乳は6日にコップ1杯、肉は9日に1食(約100グラム)しか口にできない、という。
さびしい限りであるが、これは国内の農業生産力が最大限に伸びることが前提になっている(机上の空論とする専門家もいる)。さらに大事な条件は、分配が理想的に行われることだ。心ない人間が買占めや物資横流しをしなくても、国民全員に平等に食べ物を配るなんてことは不可能だ(だって、一体誰が配るんだ?)。生産地からの遠近などによって、絶対に偏在が起きる。つまり、冒頭で「いちご狩り」を引き合いに出したのと同じように、夕食にはご飯も魚もなく、食べられるのは焼きいも3本だけ、といった人が大量に発生するということだ。
「地産地消」という言葉がある。できるだけ身の回りで生産されたもので食生活をまかなおう、という考え方だ。それが最もエネルギーのロスが少なく、歩留まりが高い。この地産地消を前提に、食料自給率を高めることは焦眉の課題といえる。
だが、食料自給率を高めようというと「ふふん」と鼻で笑う人たちがいる。日本の農業は国際競争力が低いのだから淘汰されて当然だ――という。これは何も、自動車や家電製品を輸出するのに、農業を守るための関税措置があることが都合悪いと考える人ばかりではない。いざとなれば「焼きいも」だけで暮らさなければいけなくなる庶民の中にも、「農業は過保護だ」という声は多い。