『父の詫び状』という本が出た途端、“文筆家・向田邦子”がちょっとしたニュースになったという。
「銀座百点」に連載されていたころはまだ、向田邦子の文筆家としての才能はそれほど知られていなかった。しかし、見る人は見ているものだ。『父の詫び状』が出版される前後から、新聞社や雑誌社が次々に著者にエッセイを依頼するようになった。
本書は、その1970年代後半に書かれたものをまとめたエッセイ集の第二弾になる。さまざまな媒体に寄稿したものだから、テーマはかなりばらばらだ。それでも、犬猫のことや食べもののこと、音楽のこと、幼い頃や旅先での思い出など、やはり向田印がついているような内容が揃っている。
この著者のつけるタイトルは、シンプルなものが多い。大抵は一語で、せいぜいが二文節。ただし、その中にはタイトルを見ただけでは話の予測がつかないものもある。
表題の「眠る盃」は、まさにそんな一編だ。そう名付けた一編の題をそのまま引いてきたものだが、目に飛び込んできたタイトルから何かを連想しようとしても、頭にクエスチョンマークが飛び交うだけ。よけい、「何だ、なんだ?」と急いて読んでしまう。
土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲の「荒城の月」には、「めぐる盃かげさして」という箇所があるが、著者はこれを「眠る盃」と覚えてしまい、以来なかなか修正できないというのがこの題名の由来だ。同じ「荒城の月」の四番にある、「嗚呼荒城の よわ(夜半)の月」は、「弱の月」と歌い間違えてしまうし、画家のモジリアニの名前をどういうわけかモリジアニと記憶していて、自分の間違いだとわかっていてもうっかりするらしい。
著者はその他にも自分の失敗談を挙げていく。
「父の風船」では、小学校で紙風船を作る宿題を出されて、うまくできずに泣き出したときの思い出話を披露する。見かねた父親が「もう寝ろ」と怒鳴り、一夜が明けたら無様な形だが紙風船ができている。父がなんとかこさえてくれたというのだ。
ところが学校へ行ってみると、そんな宿題は出ていなかったことがわかる。
「チョンタ」には、アマゾンで食べた未知なる味が紹介されている。友人の澤地久枝氏とアマゾンへ旅行に行ったはいいが、ホテルの食堂のメニューはスペイン語で書かれていた。さっぱりわからないので、自分たちの背後にいたアメリカ人男性が頼んでいたものをオーダーする。
見た目は、セロリの薄切りサラダのよう。ところが、食べてみると冬瓜のスライスのようで、〈今までにこんな味のない食物を食べたことはない。〉と評するしかない奇妙な野菜。これがチョンタという食材で、薄く剥がせる椰子の若芽らしい。
「夜の体操」はこんな顛末だ。向かい側のアパートの窓からあられもない姿の住人が見えて困ったと友人に愚痴ると、「それなら、向こうからあなたの姿も丸見えなのでは」と友人から指摘され、著者は呆然とする。そんなふうに考えたことがなかったらしい。
どれもこれも苦笑いするしかないわけだが、こんな小咄が次々と出てくるのだ。
向田邦子といえば、スマートで才能があり、理知的な女性だという印象が強いだろう。しかし、この人のエッセイを読んでいると、思い間違いや言い間違い、世間とのずれなどをネタにしていることが実に多いのだ。案外うっかり屋で隙があるところが、エッセイの愛嬌にもなっている。
だが、本当に“うっかり”なだけなのかと言えば、甚だ疑わしい。
この著者の視点には、常に向田邦子レンズとも言うべきフィルターがかかっている。良識家なのに、世界を単純にクリアに受け取ることができず、どこかあまのじゃくだったり、自分流を貫くから世間一般とのズレができる。もっとも、そのズレがこの人の味なのである。
そんな著者の魅力を味わうには好適の一冊だ。