植草甚一さんはおもしろい。外国のおもしろそうな本や、奇想天外なことの書いてある雑誌や新聞の記事を見つけてきては、それを日本語に翻訳して、紙芝居のおじさんのように、声色を使いながら物語仕立てで紹介してくれる。せっかくいい本があっても、こういう風に生き生きと伝えられないのなら、伝わるおもしろさも半減するだろうなあ、と思ってしまう。
全部で41巻ある植草甚一スクラップ・ブックのうちの10冊ばかりを、ぼくはだいぶ前に古本屋で買って持っていた。ところがぼくはそれを1冊もまだ読んだことがなかった。読むことよりも、まず揃えることの楽しさにひかれたのだ。
持っているだけで満足してしまうようなかわいらしさが植草甚一スクラップ・ブックにはある。漫画の単行本のような本のデザインと、メンコのような紙質のせいかもしれない。なつかしくも大切なものとして、ニューヨークの家のクロゼットに積み上げてあった。久しぶりにそれを出してみると、雑巾が真っ黒になるほど埃が積もっていた。まるで土の中から掘り出したようだった。
だがぼくが掘り出したのはその中身だった。何気なく手に取った「J・J氏の千夜一夜物語」の最初の「それはどこにあるか?」を読んですぐに、長い間本の内容を確かめなかったことをぼくは後悔した。
こんなにおもしろい読み物だったのか、となんだか宝物を見つけたような気分だった。
宝物だと感じたのは、その2ページの短いお話が、昔の海賊の宝探しをする高校生たちの話だったからかもしれない。でもその後に出てくる偽札の話も切手偽造師の話も、ぼくにはみんな宝物に思えた。読んでいて楽しくてしょうがなかった。数々のジャズ・ミュージシャンのパトロンとなった、パノニカという男爵夫人の話を読むと、セロニアス・モンクの「パノニカ」という曲を聞いてみたくなった。そしてウィリアム・メルヴィン・ケリーの小説「一滴の忍耐」のあらすじを読むと、晶文社から出ているという邦訳を読みたくなった。あらすじがおもしろいから、その元になっている話や、そこに出てくる人たちの音楽を聞いてみたいと思うのだ。
「J・J氏の千夜一夜物語」は外国の小説や新聞記事の単なる紹介の本ではなく、それが植草さんの知識と目と耳と鼻と足から語られている。足は植草さんがよく歩く人だからで、古レコード屋をブラついていて、ラングストン・ヒューズの自作詩の朗読とジャズのレコード「The Weary Blues」を見つけたことから、話をブロードウェイで上演された「日なたの乾ぶどう」という芝居につなげていっている。
この話を読んで、ぼくもニューヨークの中古レコード市で同じレコードを買ったばかりだったから、びっくりしてしまった。
「恋も超現実的なダリとガラ」では、ダリの奇行などについて書かれていて、ちょうどニューヨークの近代美術館ではダリの展覧会が開かれていたからまたまたびっくり。ダリがシナリオにかかわったという映画のいくつかの奇妙なシーンを思い出した。
こんな風に植草さんの書くものは、時間を飛び越えてやすやすと現代とつながってしまう。「J・J氏の千夜一夜物語」には50年代から70年代までの文章がおさめられているけど、それぞれに時間の隔たりは少しも感じられない。植草さんの頭の中には、大きな岩のような感性が、時間とは関係なく存在しているような気がした。