多和田葉子は一九六〇年東京生まれ。早稲田大学を卒業して、ハンブルグ大学で修士課程修了。その後、ずっとハンブルグ、ベルリンなどドイツ語圏に住み、最初の著作もドイツ語で書いた詩集だ。異色の経歴が、どうしても日本人読者とのあいだに距離を作る。一九九三年に「犬婿入り」で芥川賞を受賞し、ようやくその名が我々の眼に届いたのだ。
なにしろ日本にほとんどいないから、露出も少ないし、なかなかどういう作家かわからない。それで、ぼくも多和田体験に出遅れた。この文庫だって、古本屋で買ったのだ。それで、中央線の車中で読み始め、その不思議なテイストにたちまち引き込まれた。ちなみにこれは長編小説。
舞台はすべて海外で、しかも日本人が出てこない。いや、画家くずれのヘロンと呼ばれる日本人がちらりと出てくるが、彼も外国人の一人にすぎない扱いだ。日本語で書かれていることが不思議なような小説といっていい。
主人公の「わたし」はベトナムの女子高校生で、優等生としてベルリンで開催される全国青年大会にたった一人選抜されて旅立つ。これが物語の発端で一九八八年のできごと。ところが、ホテルのレストランで出会ったロシアの青年と会話を交わすうち、「わたし」は優等生としての物語の文脈からも、国境からも逸脱していく。とにかく気がついたら、「わたし」は言葉もわからないパリの街角に立っていた。
つまりこれは、現代における「不思議な国のアリス」である。忙しがっているウサギの後を追っかけて穴ぼこに落ちた少女のように、「わたし」もわけもわからないまま、見知らぬ人たちと異言語というワンダーランドに落っこちる。しかも、彼女は言葉が通じないから映画館に始終逃げ込み、視ることに徹する。そこで出会ったスクリーンのなかの女優に「あなた」と呼びかけ、いつのまにか同化していく。その女優とはカトリーヌ・ドヌーブ。
映画の中身は克明に伝えられ、「わたし」は暗闇のなかでこそ生きている実感を得るというのがじつに象徴的だ。
「あなたも映画の中でいろいろな役を演じなければならないようですが、わたしたちもみんな誰が監督なのか分からない歴史という映画の中で絶えず何かの役を演じ続けていなければならないのです」という一節があるが、読者もまた、「わたし」と同じく、物語のなかで宙づりにされながら、ほとんど映画のなかにだけリアリティを求めるようになる。
やがて無為に年月は去り、「わたし」は振り出しのベルリンへ戻っていく。その時、時代は二〇〇〇年になり、とっくにベルリンの壁は崩壊し、彼女を悩ませたパスポートもヨーロッパ間の移動では必要でなくなっていた。
国の境界、言語の境界、人間の関係性の境界と、さまざまな境界の上で綱渡りする少女が大人になった時、皮肉にも「境界」の意味が解体していた。著者がこの風変わりな物語を通じて描こうとした一端はそこにある。
ワンダーランドから抜け出したアリスは少し大人になっていたように、ベトナムの少女も激動の時代をスルーして、視覚と身体感覚だけで大人になっていく。つまり人がちょうど旅をするように生きていったのだ。