表題作の『利休椿』は、数奇者・利休が、関白秀吉の命令で聚楽第(じゅらくてい)の庭を造作することになり、それに相応しい椿を花作りの又左に探すよう命を下すことから始まる、哀しくも美しい物語です。
当時、諸国の武将や商人、京都の公家、禅僧のあいだでは、茶の湯が異様ともいえる流行(はやり)ぶりをみせており、茶事を開くさい、どうしても必要となるのが、茶席に飾る“茶花”だったのであります。
なかでも、みやびな姿と清楚な美しさをあわせ持つ椿は、茶席には欠かせぬものとなり、さらなる美花をもとめて、さまざまな品種改良がはじめられるようになっていたのです。
又左は、この椿作りのプロフェッショナル。利休からある日夢で見た紫の椿をぜひ探してくれという難題を持ち掛けられます。その時から、意を決し、大恩ある利休のために、彼は、決して二度と振り返るまいと思っていた椿に纏わる自分の哀しい過去へと戻って行くのであります。さて、その哀しい過去とは?そして、幻の紫椿は見つけ出すことが出来るのでありましょうか?
もうひとつは、『関寺小町』。
『関寺小町』とは、能の数ある演目のなかでも難曲中の難曲とされる演目。
老残の小野小町の口から、過去の美女であったころの思い出と、いまの衰えた姿の哀しさを語らせる曲で、あまりの難しさゆえに、観世座、金春座では、すでに百年近く演じる者が出ず、金剛座でも金剛氏正が演じて不評をかって以来、おこなわれることがなかったというもの。
そんな難曲を、大和四座の者ではないが天才能楽師と謳われた喜多七太夫が、京の仙洞御所の桧舞台で舞うという物語。大阪冬の陣、夏の陣が行われ、徳川泰平の世へと移っていく時代、『関寺小町』という、この一子相伝の秘曲がどのようにして七太夫の中で完成されていくのか…。それを、丹念、且つ、ドラマチックに描いた、読み応えのある芸道ものの一篇です。
こうした火坂作品、自分らしさへのこだわり、ここからは譲れないというプライド、この二点が主人公たちの生きざまに、必ずといっていいほど色濃く出ているところが、私を魅了してやみません。
例えば、『関寺小町』での、こんな場面、
七太夫は、手にしていた姥の面を、もとの桐箱におさめ、
「私も、かつては武士でございました」
「存じておる。豊臣家に仕える侍だったそうじゃな」
「片倉どのも武士なればお分かりでござろうが、ときには、みすみす負けいくさになると分かっていても、戦場へおもむかねばならぬこともござります。死にぎわを美しゅう飾るためのいくさ、華やかに散るためのいくさというのも、世にはございましょう」
こうした台詞や場面に込められた、男の美学に、私は、痺れるのであります。
まるで、高倉健のやくざ映画に痺れたように…。
この他に、『包丁奥義』、『辻が花』、『天下百韻』、『山三の恋』。これら七篇の舞台になった、日本のルネサンスと言われた桃山時代は、「茶道」、「染織」、「能狂言」、「連歌」等々、日本文化の真髄と考えられるもののルーツのそのほとんどがここにあると言われた時代。登場する人々も、表題の利休はもとより、信長、秀吉、北の政所、淀の方、光秀、関白秀次、三成といった戦国のスターたち。それが実に効果的に配されており、豪華絢爛、幽玄にして耽美。正に、「美は桃山にあり」を実感する、珠玉の短篇集なのであります。