アニタ・ローベルの『The Rose In My Garden』という絵本を見つけたとき、ぼくはそのはちきれんばかりの花の美しさに圧倒された。なんて生き生きとした絵を描く人なのだろうと感心してしまった。そんな生き生きとした花の絵が描けるようになった理由には、ナチスの収容所体験があったことを、この『きれいな絵なんかなかった』を読んで知った。収容所から解放されたときのことをアニタはこう書いている。「透明な色や新鮮な空気が奪い去られた世界から、わたしはやってきたばかりだった。」
最初ぼくはこの『きれいな絵なんかなかった』を、ニューヨークの古本屋で見つけて英語で読んだ。英語で読んだときはストーリーを追うことにせいいっぱいでわからなかったけど、今回日本語訳で読んでみて、この本が子供の目で書かれていることがとてもよくわかった。子供だから、事情がわからない分だけリアリティーがあって、自分の立場がくるくる変わっていくのが、子供の丸い目でよく眺められていた。だからぼくも丸い目になって一緒に旅をしたようだった。
ポーランドのクラクフで生まれたアニタは、5歳のときにドイツ軍の侵攻に合い、チョコレート工場を経営していた父親はいち早くどこかに逃亡する。
偽造の身分証明書を手に入れた母親は一人クラクフに残り、アニタと弟は大好きなばあやと三人だけでドイツ軍から逃げ延びなくてはならなかった。ばあやはカトリック教徒だったけど、アニタが10歳のときドイツ軍に見つかって、弟とともに強制収容所に連行されるまで、二人を自分の子として養い、密告者から守ろうとした。
1945年5月、ドイツ北部のラーフェンスブリュックの収容所から助け出されたとき、アニタも弟も結核にかかっていた。スウェーデンの療養所に隔離されるけど、心と肉体が癒されるのには長い時間を要した。やがて逃亡から戻った父親と、クラクフで生き延びた母親と再会して、ストックホルムで一緒に暮らし始める。アニタはスウェーデン語を覚え、高校に入学する。ナチスからずっと学校に通うのが禁止されていたユダヤ人のアニタにとって、これは生まれて初めてのことだった。アニタは学校に夢中になるが、美術の時間の絵を描く体験は特に強烈だったようだ。「わたしの筆は、紙の上におりると、紙をこすったりくすぐったりしながら、鉛筆の線のなかを歩きまわった。わたしは、まるで小さな虫、そう、ハエやクモになったような気分だった。」芸術家の誕生だった。
17歳のとき両親と共にアメリカに移住したアニタは、やがて絵本作家アーノルド・ローベルと結婚してアニタ・ローベルとなる。現在もニューヨークで暮らし、絵本を作り続けているという。今までヨーロッパを訪れる機会はたくさんあったけど、一度もかつての強制収容所を訪れたいとは思わなかったそうだ。そんな彼女にとって、この本を書くのは大変な決意がいることだったと思う。子供時代を振り返ることは、子供になってもう一度同じことを経験しなおすことだから。