なんとも卓抜な構成である。前編の主題は、ごくふつうの善良な女が、おもいがけず、つい、他人の赤ちゃんを盗んでしまうという罪の主題が語られる。後半の主題は語り手を変え、その赤ちゃんの十七年後を描き、彼女はいまだにトラウマにとりつかれていることが語られてゆく。そう、こちらの主題は〈トラウマの克服〉である。すなわちこの小説は、〈罪〉の主題と〈トラウマの克服〉の主題が、葛藤を演じてゆく。しかも後編においては、前編の物語が批判され、相対化されてゆく。物語はがぜん立体化し、奥行が増し、葛藤もまた高まってゆく。そしてエンディングにおいて、まず恵理菜にトラウマから解放される兆しが描かれ、次に希和子にそっとかすかな〈赦し〉が与えられる、その赦しは法秩序からでも、世間からでもなく、ただ文学だけが与えることのできる、そんな赦しが。
この小説は読売新聞に連載された。おもえば小説にとって新聞というものは、ともに〈物語〉を語る、身近な他者でもある。そしてこの小説『八日目の蝉』は、そのもっとも身近な他者のなかから物語を奪い取る試みでもあるのだった、そう、むかし愛人だった男の家から赤ちゃんを盗み出すような試み。なぜ、小説が、報道から物語を盗み出す? それは著者が、真実は報道から抜け落ちてしまうもののなかにこそあるのではないか、と考えるからだ。そしてその見方とともに、著者は、善/悪のあわいに踏み込み、もともと罪などまるでなかった人がついちょっとしたはずみで罪をなし、しかしながらそのちょっとしたはずみの背後にあるさまざまな背景とともに、多面的に描き上げてゆく、そう、実に立体的に。その生々しいきわどさ。小説という虚構にしかなしえない仕事がここにある。読者の読み方ひとつでこの作品は不安定な表情を見せもするだろう。しかしまさに読者をその不安定な宙吊りすることにこそ、この作品の力量がある。この作品『八日目の蝉』は、作家・角田光代にとって記念碑的作品であるとともに、文学のすぐれた達成を示している。〈文学と悪〉という(古くて新しい)可能性について、あらためて考えさせられる。
あたかも、母になる可能性を奪われた女が、その可能性を奪った男に復讐するはなしであるかのように物語ははじまる。〈母性という神話〉が彼女を苦しめ、犯罪に追いやったのだろうか、それとも、彼女はたんに(少なくとも結果として)自分をもてあそんだ男に復讐したかったのだろうか。いっけんどちらのようにも見えるものの、しかし、どうやらどちらともいいきれないようだ。
物語は二部構成。第一部のヒロインは希和子である。希和子はかつての愛人だった男がその妻とのあいだにもうけた赤ちゃんをひとめ見たいと考え、かれらのごく短い不在中(鍵もかけていない)家へ忍び込む。「何をしようってわけじゃない。ただ、見るだけだ。あの人の赤ん坊を見るだけ。これで終り。すべて終りにする」とおもいながら。しかし希和子は、赤ん坊を見て、胸に抱き、「ほわほわした頭髪に顔をうずめ、思い切り息を吸い込む」と、もういてもたってもいられない。「やわらかかった。あたたかかった。つぶれそうにあたたかいのに、何か、決してつぶれないごつりとしたしたたかさがあった。なんてもろい。なんて強い。ちいさな手が希和子の頬にぺたぺたと触れた。湿っていて、やっぱりあたたかかった。離しちゃいけない。希和子は思う。私だったら、絶対にこんなところにひとりきりにしない。私がまもる。すべてのくるしいこと、さみしいこと、不安なこと、こわいこと、つらいことから、私があなたをまもる。希和子はもう何も考えられなかった。呪文のように希和子はつぶやき続けた。私がまもる。まもる。まもる。ずっと。」
むろん読者は怪訝におもう、早まるな、そこで止めておけ、そのまま黙って立ち去れ、もしもそこで赤ん坊を盗み出せば犯罪だぞ。しかし希和子はコートに包むように赤ん坊を抱き、タクシーに乗ってしまうのである。なんと愚かで、無責任な。なぜ犯罪を犯し、自分の人生を棒に振るのか? 「つい、出来心で」という無意識のその背後に、ぎりぎりまで追い込まれた者の絶望が感じられはするものの、読者はむらがりおこる疑問のなかに宙吊りにされたまま、彼女の犯罪の行方を追いかけてゆく。