数年前に「日本のアール・ヌーヴォー 1900-1923 工芸とデザインの新時代」というエキシビションが開催された(東京国立近代美術館、2005年)。タイトル通り、日本におけるアール・ヌーヴォーの影響を検証する企画であり、「女」「ブックデザイン」「図案の革新」「画家と工芸家」「室内」等々、いくつかのモチーフやジャンルに切り分けたうえで、明治後半から大正期の中頃にかけて活躍した工芸家や図案家、画家、建築家の作品を展示する試みだった。
この展覧会が刺激的なものだったのは言うまでもない。しかし、4半世紀も前に「日本のアール・ヌーヴォー」なるものの見取図を描いた人物がいる。評論家の海野弘だ。海野は『日本のアール・ヌーヴォー』(青土社、1978年)で、浅井忠、黒田清輝、藤島武二、青木繁等々、1900年代の画家を取り上げた。「1900年スタイルとしてのアール・ヌーヴォーが、日本にも同時代的痕跡を残しているのではないか」と直観したからだ。
海野はいわゆるアカデミシャン(研究者)ではない。けれども、該博な知識と横断的な視点によって、それまで正面から論じられることのなかった領域を、いくつも開拓している。ちなみに、海野の足跡については、『歩いて、見て、書いて――私の100冊の本の旅』(右文書院、2006年)が網羅しており、海野の個人史とともに、関心の移り変わりを辿ることができる。
海野の着想は斬新であり、その態度はクリティック(批評家)と呼ぶにふさわしい。念のために言っておくと、研究者と批評家の間に優劣があるわけではない。優れた研究者、優れた批評家は、ともに必要である(実際、冒頭で触れた展覧会は、優れた学芸員の手によって実現したものだ)。
海野の出発点となったのは、『アール・ヌーボーの世界――モダン・アートの源泉』(造形社、1968年)。これは、上記『日本のアール・ヌーヴォー』を生み出し、さらに『アール・デコの時代』(美術公論社、1985年)へとつながっていく。『アール・ヌーボーの世界』や『アール・デコの時代』は、それぞれの様式や時代精神の概要を知るための入門書として、いまなお有効だろう。しかし、海野の真骨頂は、欧米の文化的な潮流を、同時代の日本において「発見」しようという姿勢。『日本のアール・ヌーヴォー』は、その最初の結実といっていい。
『アール・ヌーボーの世界』や『アール・デコの時代』は、ともに現在、中公文庫で気軽に読むことができるが、同じく、中公文庫には、『モダン都市東京――日本の1920年代』という傑作が収められている。これは、海野における一大テーマである「1920年代」を中心に、川端康成、萩原恭次郎、龍胆寺雄、林芙美子、江戸川乱歩、中野重治といった作家を取り上げたものだ。すなわち、彼らを「モダン都市東京」を描いた作家として、読み直そうという企てである。ここで海野は、文学史を再定義しようとしている。
『モダン都市東京』の姉妹編が『東京風景史の人々』だ。ここで並ぶのは画家の名前。つまり『モダン都市東京』のアプローチと同じく、小林清親、鏑木清方、木村荘八、竹久夢二、谷中安規等々、「モダン都市東京」を描いた画家たちを取り上げ、美術史と都市論を結びつけようとするのだ。そのことをよく示しているのが、日本画家・今村紫紅について触れた文章。海野はこう記している。
「さらに私は、日本の近代美術史を洋画と日本画という二本立てではなく、ヨーロッパのモダン・アートと同時代のものとして、同じ舞台の上でとらえたいと思っている。画材や手法のちがいはあっても、日本画もまたモダン・アートであるはずである。紫紅ののびやかな風景画は、同時代の世界的水準に達しており、モダンであると私は思う」
こうした問題意識を軸に、美術史と都市論の結びつきは、さまざまに変奏されていく。たとえば、表現主義を媒介にして、カンディンスキーと山田耕筰が併置され、あるいは、夏目漱石の作品に都市生活者の視線を探っていく。
こうして海野は、都市文化の総体を捉えたいという欲望にからめとられてしまう。それを象徴するのが、第4章にまとめられた銀座に関する文章群。ここで海野は「建築と美術と文学が織りなしていく絵図は私をあきさせない」とまで語っている。同様に、1920年代に人気を博した雑誌「新青年」に関しては、掲載されたテクストだけに注目するのではなく、雑誌そのもののグラフィカルなありようにも注目する。いわく、
「雑誌というのは、都市に似ている。そこにはあらゆる雑多なものが集められていて、都市の雑踏をそのまま支配しているかのように見えるのである。したがって、雑誌の面白さというのは、個々の小説や読物だけでなく、コラムやさし絵や、さらには広告を含めた丸ごと全体のうちにひろがっている」
「雑誌というのは、都市に似ている」とは至言だが、さて、遠い将来、21世紀初頭をふり返ってみて、そこに「雑誌」や「都市」は、どのように見出されるだろう。それは、旧来の雑誌や都市のかたちを採っていないかもしれない。あるいは、我々がさほど熱心に目を向けていない分野に、2000年代の東京を象徴する何かが潜んでいるのかもしれない。『東京風景史の人々』は、そんなふうにとりとめもない夢想へも誘ってくれる。