さて。
『白い息』の主人公藤木紋蔵は、睡眠障害の一種といわれる、ナルコレプシーという持病のある人という設定。ナルコレプシーは、過眠症だとか居眠り病といわれ、日中、時や場所を選ばず、強い眠気の発作が起こる病気である。だから「居眠り」紋蔵なのだ。麻雀小説の名作「麻雀放浪記」を書いた、阿佐田哲也さんがこの病を持っていたと思う。間違えていたら、失礼。
八丁堀の役人、同心の藤木がこの病ということで、外勤ではなく内勤になっている。初めのうちこそ同僚に居眠りと思われていたが、病気であることが知られ、それなら内勤がいいだろうという、一部思いやりがないことはない。本人は、同心では「花形」であり格好いい定廻りになりたいのだ。
紋蔵は、例繰方(れいくりかた)。これは少し説明が面倒だが、江戸時代の奉行所の裁きは「この事件に似た事件は前になかったか?」という、前例に倣う方法が多く、奉行所に記録されている膨大な事件記録から「こんな例があります」とか「これなどは参考になるのでは」と、探し出す担当、あるいは記録に通じていて「ああ、それなら知ってます」と持ち出してくる担当、それが例繰方。資料室に勤務していて、どの棚に何があるか熟知しているといった担当と思えばいい。この、どこに何があり、過去にこんな例があったということに関しては、紋蔵はすごい。大変、記録に通じている。
そういう地味な話題で連作小説になるかといえば、色々とある。できれば助けたい人間が裁かれることになったときに、その人間を助けられそうな例を探し出すというような(あくまでも、というような)ことやら、未解決事件の記録を読んで、「おや?」と思った時にちょっと自分で調べてみたりすることもある。もちろん、それは逸脱行為なので上司に文句をいわれるけれど、そこは主人公だからどうにかなるわけだ。
そうして、これまで「江戸の街を颯爽と歩き回る定廻りに憧れ続けた」紋蔵は、この前の作品で手柄を立てて、ついに念願の定廻りになったのがこの一冊。
紋蔵をずっと読み続けてきた者としては、定廻りになって付け届けなどで見入りもよくなり、飲みたい酒もご馳走になるばかりではなく、自前で飲めるようになり、子どもたちにかかる費用も前よりは楽に払えるようになってよかったと思った。
しかし、シリーズ名が「物書同心」でしょうに。毎日外を歩くようになって居眠りも出ることがなく、すこぶる好調なのだが、さて作者はいつ主人公に失敗させ、元の例繰方に戻すのかと気になって落ち着かない一冊だった。せっかく暮らしぶりがよくなり、日常的に不機嫌に見える紋蔵が少し喜びを感じられるようになったのだから、これが続いて欲しいと思う。思うけれど、そのまま楽しい日常というわけにはいくまい。
この読者の心理は、シリーズを読んでくればこそ、である。そう思わせる作者がうまい、ということだ。実にうまいのだ。作者は、私のような読者の思いをわかっているのだろう、失敗はさせないが、紋蔵を元の仕事に戻すことにした。実は「お手柄」を立てるのだけれど、それがかえってよくなかったとでもいっておこうか。
という、実に複雑な味わい。「うまいなぁ」と思いながら読み終えた。
連作七冊、一冊目を読んで面白いとなって全部読もうと思えば、ふた月で十分追いつける。しかしこういう場合は、どーんと揃えて読まずに、ふた月に一冊ずつぐらいの感じで読み、一年かけて追いつけば、次の新刊が出る頃になる。そういう風に追いつく手もあります。