発想力が豊かな人は、大概、多弁で、話があちこちに飛ぶ。話に参加しようと思うと、もう話題は違うところに行っている。脈絡がないともいえる。まじめな話かと思って聞いていると、突然ダジャレになる。話について行けない。こういう人は話を掘り下げることはできないが、発想を掻き立ててくれる意味では貴重な人種である。
言語学者金川欣二はそういうタイプの人ではなかろうか。著者もあとがきで話が飛んでしまうのは「古館伊知郎のいうバスガイド思考」であると書いている。「右に見えますのは…」と言った瞬間、もう歌い出しているような思考回路らしい。「言葉にも、言葉の学問にも一貫性などない」と信じている著者の縦横無尽な話術が、なんとも刺激的だ。言語学者にとって「発想は新鮮に生きるための文法」なのである。
発想は「複雑系で使われる創発(emergence)であり、緊急事態(emergency)と同じ語源だから、突然パチンと現れる」ものなのである。明日までにアイディアをまとめないと大変なことになると崖っぷちに追い込まれて、やっとアイディアが出てくる。絞り出す感覚ではなく、ふっと湧き上がる感覚に近いのではないか。そうなれば掬い取るだけでアイディアを自分のものにできる。
要は緊急事態に持ち込む勇気があれば、いい結果に導くことができる。
広告ではコピーライターはデザイナーといっしょに仕事をすることが多いから、一種の夫婦関係に近い。苦闘の末、デザイナーのアイディア・スケッチがまとまりそうになると、軌を一にしてコピーライターもコピーができあがる。これなど著者の指摘する「クーバード/擬娩」ではないか。妻が産気づくと夫もお腹が痛み、お産を疑似体験する習俗である。同じことを考え続けているうちに、シンクロニシティ(共時性)が生じるのだ。たいていアイディアが生まれるときは難産になるし、それを緊急事態と考えれば、わかりやすい。
もうひとつ、本書で興味を惹いたのは異質なものを結びつけたり、衝突させたりする発想法である。正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は「二物衝撃」の手法である。柿と鐘をぶつけると、物語と想像力が生まれてくる。これがシュールレアリズムになると、「デペイズマン」(dpaysement)と呼ばれている。「本来あるべきところから物やイメージを移して、別の場所に配置することで生じる驚き」を指す。これは「異種結合」である。
広告制作のときにはなにげなく使っていた「二物衝撃」や「異種結合」の手法だったが、今回、初めてこれらの言葉を知った。CMで白クマが南の楽園で踊っている、というアイディアがこれに当たる。北極の白クマを南の島に移すことで、イメージの格闘が起きている。「白クマは暑くて汗だくだろうな」と思ったとき、エアコンが出てくるわけである。
言語学者は言葉を操って口先で生きているように思うけれど、存外、努力の人である。著者はこの本のタイトルを当初「言語ギャクと現代思想」というように考えてみたと言っているところにその思考が垣間見える。言語学者はおもしろさを追究する複雑系に生きており、広告人はおもしろければいいという単純系に生きていることがよくわかった。なによりの衝撃だった。