羊飼いの少年は、宝物を発見する夢を見たが、宝探しの旅に出ることをためらった。少年は羊飼いの仕事をすべてを知っていて、そのことは彼に安心をもたらすからだ。が、少年は賢人から「人生のすべてには対価が必要だ」と促され、羊を手放す。さらに賢人はこんなことを言う。「若いころは誰しも夢を見ることを恐れない。ところが、時がたつうちに不思議な力が、夢を実現させることは不可能だと思い込ませ始める」。
少年は砂漠へ宝探しの旅に出る。さまざまな苦難が待ち受けるが、彼は賢人から「前兆」の読み方を教わっていた。賢人によれば、人が夢を実現しようとするとき、宇宙のすべてが協力して助ける。そのとき、目印になる出来事が前兆だ。耳をすませて心の声を聞き、夢につながる前兆を見落とさないようにしなければいけない。
少年は旅の途中、砂漠のオアシスで一人の少女とめぐり合う。少年は少女をめとってオアシスで暮らそうと考える。賢人はこう言って彼を諌める。「おまえはここが好きになる。前兆はさかんに宝物のことをおまえに思い出させるが、おまえは無視する。いつの日か前兆はおまえを見捨てる。おまえは夢を探さなかったことを悔い、だがそうするにはもう遅すぎる、と思いながら人生を送るだろう」。
少年は旅を続ける。しかし、宝物は見つからないのではないか、このまま砂漠で死ぬのではないかと怖くなり、心は千々に乱れる。少年はそんな自分の心を持て余し、賢人に「僕の心は裏切り者です、僕に旅を続けてほしくないのです」と訴える。賢人は答える。「夢を追求していくと、今まで得たすべてのものを失うかもしれないと、心は恐れているのだ。傷つくのを恐れることは実際に傷つくよりもつらいものだと、おまえの心に教えてやるがよい」。
こうやって本の中身をわずかになぞっているだけで、私は胸のあたりが苦しくなってくる。私の心は私に問うのだ。「おまえは夢をかなえるために何を犠牲にしたのか。おまえの夢は、おまえが本気で追いかけないうちに、とっくにおまえを見限ったのではないか」。ならば、私は心にこう言ってやりたい。「私が夢をかなえられなかったのだとしたら、それはおまえが臆病すぎたからだ」。
著者のコエーリョ氏は、物語の読者を一体何歳くらいと想定していたのだろうか。思春期に読んでおくのがいい、と思う。しかし、本当に物語が身のうちに染み込むのは、それなりに人生にもまれ、夢がやや色あせてしまった年代なのではなかろうか。
いつまでも夢を持ち続けることが大事――とはよく聞く言い回しで、その通りだとは思うが、どうも上滑りしがちだ。「午後から雨模様ですから、折り畳みの傘があると便利でしょう」と言う天気予報と同じくらい、生きた言葉として響いてこない。夢は持ち続けるだけではだめなのだ。神棚に載せてうやうやしく拝んでいると、カビが生えてしまうのだ。
コエーリョ氏は世界を巡る旅を経て、40代に差し掛かった時期にこの本を出版(1988年)している。物語の少年もまた、宝探しの旅に出た。もっとも「旅」とはある意味、一つのレトリックだろう。『アルケミスト』によれば、夢とは自分がなすべき運命であり、運命を心はよく理解している。つまり、夢は旅先に転がっているのではなく、最初から心の中にある。だが、心は大の怖がりだ。だから、私たちは一度、自分の外側に飛び出して、心がつくうそを見抜かないといけないに違いない。
ところで、私はなぜいったんは読まずに捨ててしまった本に、こんなに自分でも赤面してしまうほど敏感に反応してしまったのか。それはたぶん、「老い」への恐れだろう。十数年前に訳者の山川夫妻から本を薦められた時点と比べれば、確かに私は老いている。夢見ることが当たり前で、夢を抱いていることすら忘れていたころと違って、今の私は油断するとしおれてしまう夢に水をやり、肥やしを与えて、面倒を見る必要がある。ときに重荷でさえある。夢を見るにも体力が必要だ。
が、それだからこそ私は今、この本と向き合うことができたのだと思う。世界的なベストセラーだから、とっくの昔に読んだ人も多いだろう。そういう人から見れば、こっけいに映るかもしれない。それでも、私にとってこの本との出合いは「前兆」なのだ。まだ夢に見捨てられてはいない、そう考えるだけで私はとても楽観的な気分になれる。