―大丈夫。世の中はお掃除と一緒だよ。汚れたらきれいにすればいい。また、汚れちゃうかもしれないけど、また、きれにすればいい。(「オペレータールームの怪」)
小説を読む楽しみの半分は、心に残る言葉を捜すことにある。いい言葉を含んだ小説って、決して忘れないでしょう。あらすじがあやふやになっても、なんとなく読んだときの気分だけは記憶している。心が曇ったときに、本棚から取り出してその言葉の付近だけ拾い読みしてもいいかな。『天使はモップを持って』は、そんな愛すべき作品だ。八つの短篇を収めた連作ミステリーである。
新入社員の梶本大介は、オペレータールームへの配属早々、不思議な光景を目撃する。大介曰く「間違い探しの絵をいきなり、目の前に突きつけられたような感じ」。社内を掃除している女性に驚いたのだ。「綺麗に日焼けしたつやつやの肌、小柄な身体にぴったりした白いTシャツに、黄色いミニのプリーツスカート、黒のごつい安全靴」、「赤茶色にブリーチした髪を高い位置できゅっとポニーテールにし、耳には三つも四つもピアスをぶら下げている」という風体は、大介の観察では「十七、八歳くらい」(後にこの観察は外れていて、もう少し年齢は上であることが判る。大介君、あまり女性慣れしていないでしょ)。
彼女の名は嶺川桐子。通称、キリコ。社屋の清掃を一手に引き受けている、社内の名物なのである。趣味は清掃。だから、仕事も清掃。単純明快でいいですね。
この単純ということが鍵である。世の大人はみな屈折している。現在の職業に幻滅を感じていない人、一度も転職を考えたことがない人というのは皆無だろう。望んで就いた職業のはずなのに、いつかそれに倦んでいく。自分のせいではない。もちろん仕事自体が悪いわけではない。疲れがそうさせるのだ。積もりつもった心の澱が、アンテナの感度を鈍らせていく。そして仕事から悦びを受け取ることができなくなるのだ。そうしたとき、素直に自分の弱さを認められる人は少ない。みな、詰まらない理由をつけて、弱い自分を弁護しようとするのだ。中には行き過ぎて、他人に害を与えてしまう人まで出てくる。
そうした人々に、汚れたらきれいにすればいいじゃない、とアドバイスを贈るのがキリコという存在なのである。好きなことを好きだからやっているという単純さが、大人たちの屈折から彼女を救っているのだ。
もちろん世間知らずなわけではない。清掃の仕事の中には、人が見たくなくて捨てたゴミを処理する作業も含まれている。いわば人生の暗部だ。毎日のようにそれを見ていれば、心も鍛えられるし、他の人が気づかない違和にも敏感になる。清掃員という、オフィスにとって黒子のような立場の女性が実は誰よりも人間関係の歪みを承知している、という点に本書のミステリーとしてのおもしろさがあるのである。一種の「見えない人」テーマと言うこともできますね。
また本書は、手に職を持って働いている人を前向きに描いた作品でもある。忘れてはいけないのは、さまざまな差別意識のあり方がさりげなく作中に挿入されていることだ。会社という組織の中には、旧弊な価値観がいまだにのさばっている。判りやすいのは男女の地位に関するもの。もちろん、清掃員というブルーカラーの職業に対して、意味もなく優越感を抱いているホワイトカラーの社員も多いだろう。そうしたひずみも、キリコはしっかりと受け止めていくのである。収録作の一つ「シンデレラ」は、キリコが誇りを持って続けている清掃という職業を悪意ある人物から妨害されてしまう話だ。幕切れ近く、傷ついた彼女に大介が言葉をかける場面は強く胸を打つ。自分の仕事を続けていく自信が持てなくなったときには、ぜひこの一篇を読み返してみてください。
キリコの活躍するシリーズは、『モップの精は深夜に現れる』(二〇〇五年)、『モップの魔女は呪文を知ってる』(二〇〇七年。ともに実業之日本社)と順調に書き継がれている。『モップの精』の最初の収録作「悪い芽」では、本書で語り手を務めた梶本大介が登場せず、栗山という中年男性が視点人物になる。ええっ、大介とキリコの仲はどうなっちゃったの、と心配になってしまった読者は、とりあえず本書の最終篇「史上最悪のヒーロー」まで読むこと。それから『モップの精』を最終篇「きみに会いたいと思うこと」まで読むと、二人のその後のことがだいたい判るはずである。
え。三冊では物足りないから、同じような味わいのある近藤作品を他にも教えろ、ですって。欲張り者め。短篇集でいうと、『タルト・タタンの夢』(二〇〇七年)と『ヴァン・ショーをあなたに』(二〇〇八年。ともに東京創元社)の二冊が刊行されている〈ビストロ・パ・マル〉シリーズがいいかな。古武士を思わせる風貌のシェフ・三船が、料理と謎解きの二刀流で活躍する連作で、作中で描かれるフランス料理の数々がどれも非常においしそうなのが嬉しい余禄になっている。作者がその料理を好きなのかな、という雰囲気がよく伝わってくる。
長篇では『カナリヤは眠れない』(一九九九年)、『茨姫はたたかう』(二〇〇〇年。ともに祥伝社文庫)、『シェルター』(二〇〇三年)の三冊が刊行されている整体師・合田力シリーズがお薦めだ。卓越した施術師である合田がほぐすものは、身体の凝りだけではない。依頼者が心の中に抱える、鬱屈した想いをもまた解き放つのである。整体という行為が魂の救済に結びつくという小説の型は、掃除の現場から出来事の裏を観察するキリコ・シリーズに似たものがある。キリコが建物の汚れを綺麗にしながら人の心を洗い出すように、合田も身体の疲れと同時に心の痛みを癒すのだ。近藤史恵は、そうした具合に「快」の方向へ物語を押しやるのが巧いのだよな。だからこそ、読者も幸せな気分に浸ることができるのである。