フィル・スペクターはロックのプロデューサーという存在を世間に認めさせた最初の人物だ。
自分もメンバーの一人だったテディ・ベアーズの「逢ったとたんに一目惚れ」、クリスタルズの「ヒーズ・ア・レベル」、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」、アイク&ティナ・ターナーの「リヴァー・ディープ、マウンテン・ハイ」といった曲から、ビートルズの『レット・イット・ビー』、ジョージ・ハリソンの『オール・シングス・マスト・パス』、ジョン・レノンの『イマジン』『ロックンロール』、ラモーンズの『エンド・オブ・ザ・センチュリー』といったアルバムまで、彼が関わった作品はそうそうたるもので、熱心な音楽ファンならずとも、耳にしたことがある人が多いだろう。
R&Bやワグナーの音楽に心酔していた彼が60年代にニューヨークやLAのスタジオで作り上げた分厚いサウンドは、ウォール・オブ・サウンド、ロックンロール・シンフォニーなどと呼ばれ、いまなお特異な輝きを放っている。
そのサウンドを作り出すために、彼はスタジオで試行錯誤をくりかえした。ヒット曲を連発し、自信たっぷりにセッションを指揮した彼は、人の意見に傾ける耳を持たなかった。スタジオでは、指示に従うか、去るかのどちらかだった。
彼の行くところには毀誉褒貶がつきまとった。
たとえば最も厳しい意見のひとつは、少年時代のフィルにギターを教えたジャズ・ギタリスト、ハワード・ロバーツのものだ。「ヒーズ・ア・レベル」のセッションで単純なフレーズを何時間も弾かされたハワードはこう回想したという。「西洋文明の没落というのが本当だとすれば、あの時期の音楽は、その原因の筆頭にあげられると思う」「フィルはハリウッドでの成功というネヴァー・ネヴァー・ランドに入ってしまったんだ。まともじゃなかった」
スタジオで帝王として振る舞うだけなら、彼の評価はもう少し安定したものだったかもしれない。少々奇矯な行動に見えても、結果として作品の完成度が高まれば、人は納得するからだ。しかし彼は仕事の過程でしばしば知人を騙したり、踏み付けにしたりして、敵を増やした。伝聞が正しければ、そのやり方は、権力者らしいというより、いじましさを感じさせることが多かったようだ。名曲「リヴァー・ディープ、マウンテン・ハイ」を発表したとき、商業的にまったくふるわず、彼が凋落の第一歩を踏み出したのは、この曲の内容が時代に先んじていて理解されなかったからではなく、恨みを持つ業界人が復讐したのだという説まであるくらいだ。
ぼくがフィルの存在を知った70年代には、彼の奇人ぶりはすでに伝説の域に達していた。彼は気にさわることがあると、持ち歩いているピストルを振り回した。ジョン・レノンの『ロックンロール』のレコーディングでは、スタジオの天井をピストルで撃ち抜き、マスター・テープを持ったまま姿をくらました。もっとも、このときはジョンも酒びたりで手に負えない状態だったのだが……。
2003年にカリフォルニアの彼の邸宅で女性の射殺死体が発見される前から、被害者には気の毒だが、いつかはそんな事件が起きるのではと関係者は心配していた。その事件の裁判はまだ続いている。
この本はそんなフィル・スペクターについて関係者の証言にもとづいて書かれた大冊で(フィルは取材に協力していない)、1990年に一度翻訳された後、長い間、品切れになっていた。今回の新装版では、未完のセリーヌ・ディオンのセッションをはじめとする90年代以降の話が書き足され、まえがきも改稿された。また、音楽的注目点を解説した大瀧詠一と朝妻一郎による特別対談が追加され、ディスコグラフィーも増補されている。読みごたえがあるのはもちろんレコーディング・セッションの話だ。
一方、フィル・スペクターの行動の記述は、読んで後味がいいとはけっして言えない。関係者の証言は、特に心象が入る部分は、記憶ちがいや脚色を避けることが難しいから、うのみにしないほうがいいとしてもである。
彼は初めに自己主張ありきというアメリカ的な生き方を過剰に実践してきたとも言えるだろう。しかし相手を認めない一方的な自己主張が、音楽創造においてならまだしも、日常生活の場で発揮されれば、あつれきが生じないわけがない。そこでかんしゃく玉を爆発させ続けた彼の幼児的な姿には、他人の痛みを思いやる余裕や想像力が感じられない。
本書では表面的にしかふれられていないが、若くして自殺した父親に起因する何かが、たぶん彼の人となりに深く関わっているのだろう。彼が16歳で作った最初のヒット曲「逢ったとたんに一目惚れ」の原題「To Know Him Was To Love Him」は父親の墓石に書かれている言葉だった。
天才的なプロデューサーをめぐる興味深くも苦味にみちた本である。