2007年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門の審査員賞を受賞したのを始め、世界各国で大小11もの賞に輝き、絶賛を浴びたアニメーション映画がある。
1970~90年代、イスラム革命前後の混迷するイランで生まれ育った少女マルジの成長と、愛情あふれる家族の肖像を描いた映画『ペルセポリス』は、この2月に日本でも公開され、話題を呼んだ。
目を惹くのは、おしゃまでパンクロックが好きで、正しいと思えば大人にも食ってかかるようなマルジの健全な魂。そして、数々の規制のもと、息を潜めるように暮らし、それでもなおできる限りの自由を心に羽ばたかせていたイラン女性の気高さだ。
観る者にさまざまな思いを抱かせるこの映画の風景と、本書『テヘランでロリータを読む』の舞台は多分に重なる。
ホメイニ革命以後のイスラム共和国では、政府当局による反体制者や学生への非道な弾圧が常態となっていた。ヴェール着用を強要するなど女性の自由や権利は剥奪され、隣人たちの密告による投獄や処刑が相次ぐ。暗澹たる日々に追い打ちをかけるように、イラン・イラク戦争が勃発する。
そんなイスラム原理主義支配が続いていたテヘラン。知的エリートの両親を持つ著者のアーザル・ナフィーシーは、13歳から海外で教育を受け、一九七九年のホメイニ政権樹立の年に帰国した。以後、大学で教鞭を執っていたが、一九九五年のベールの着用を拒否したことで大学教員の職を追われる。それを機に、彼女は文学を熱愛する優秀な女生徒七人を選び、自宅で秘密の読書会を開くのだ。
堂々と行えないのにはわけがある。すでに『グレート・ギャツビー』『高慢と偏見』などの外国文学は、西欧的退廃の象徴として禁書になりつつあった。
それらを読むこと自体、危険な行為だと知りながら、ナフィーシーは思想も階層も違う女生徒たち──詩人のマーナー、傷つきやすいマフシード、グループ最年少だが反逆者の信念を持つヤーシー、背の高いアージーン、物静かなミートラー、自立したがっているサーナーズ、やがて国を捨てるナスリーン──とともに、生きるよすがとして西洋の名著を読み、語り合っていく。
〈あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど苛酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。(略)あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。〉
〈文学を読むことで、人は初めて他人の身になり、時に矛盾する他者のさまざまな側面を理解することができ、人に対して無慈悲にならずにすむ。〉
偉大な文学作品が、困難な人生や現実と対峙する上でどう役に立つのか。読書という体験から何を学ぶのか。本書でナフィーシーは、女生徒たちの姿を見つめることで、その答えとなる見事な文学論を展開していく。
文学の力を信じるナフィーシーが最初に選んだテキストは、ナボコフの『ロリータ』だった。手練手管と狡知を尽くして、ロリータの人生を支配し続けるハンバート・ハンバート。女生徒たちは彼の非道を非難するが、同時にこの小説に強い共感を持つ。
なぜなら、勇気を失わずに彼の支配から逃れ、立ち直っていくロリータに、抑圧的な生活を強いられている自分たちの姿を重ねたからだ。
そこには、テキストを前に、世界中の女性たち同様、恋愛や結婚や、どう生きるべきかについて悩む、年頃の女性の等身大の姿がある。驚くべきは、そんな彼女たちの心情を交えた打ち明け話のような感想が、ときにまったく新しい作品理解につながっていくことである。
女性性も個性も奪われたかに見える彼女たちだが、ヴェールの下では、ビビッドな色のTシャツやジーンズのおしゃれを楽しんでいる。『ペルセポリス』に登場するイラン女性たちもそうだったが、どんな状況にあっても、豊かな内面や女性らしさが彼女たちの心にしっかりと根を張っているのは、何だかうれしい。
読書会は、ナフィーシーが再びイランを出るまでの二年間続いた。その回想録である本書は、ノンフィクションでありながら、あまりに小説的な痛み、美しさ、余韻を、読む者の胸に刻みつける。
処刑や拷問、戦争など血なまぐさい思い出も差し挟まれるが、それゆえにいっそう読書がもたらす喜びや、小説の人間肯定の力に感じ入る彼女たちの心が輝いて見える。
もっとも、東京を含め、自由で抑圧などないように見える場所であっても、文学の機能は必要とされると私は思う。
目に見えない形で私たちが拘束されている閉じた空間=目の前の現実に対する批判のなさや盲従から、開かれた世界へとつなぐ回路になってくれるのは、いついかなるときも文学なのだと本書は教えてくれるのだ。