ポール・オースターをはじめて手にしたのは1989年、いまとなっては信じられないことだけれど、彼のメジャーデビュー作「シティ・オブ・グラス」(角川文庫)はエドガー賞にノミネートされていた関係で、「ニューヨーク・タイムズ」の書評では「形而上学ミステリー」と評され、同書の「訳者あとがき」では「こんな風変わりなミステリーに出会ったのは初めて」などと紹介されていたのだから驚くしかない。つまりオースターはミステリー作家として読者の前に忽然と姿を現したのである。「シティ・オブ・グラス」は、深夜、一本の間違い電話からはじまる監視と追跡と迷走のいわば「ニューヨーク迷宮譚」で、殺人や犯人さえ存在しない、探偵小説の意匠を借りたポストモダン小説だったのだが、「解けない謎」を提示したまま終わる、いわばミステリーを超えたその読後感に、僕は一瞬にして、オースターの虜になってしまったのである。
二作目が本書「幽霊たち」(新潮文庫)である。物語はこんなふうにはじまる。「まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。」
探偵のブルーは、ホワイトからブラックを見張るように依頼される。ホワイトが用意してくれたブラックの部屋を眺めることができる部屋から日がな一日、ブラックを見張り、ホワイトに報告書を書かかなくてはならない。退屈な仕事、だがブルーはその仕事にのめり込んでいく。時は1947年、ニューヨーク。ブラックを追うブルーの中でさまざまな記憶が蘇る。父の記憶、ロバート・ミッチャム主演映画「過去からの脱出」、ナサニエル・ホーソーンの「ウェイクフィールド」などがエピソードとして挟み込まれる。ブラックはヘンリー・デイビッド・ソローの「ウォールデン」(「森の生活」上下巻・岩波文庫)を読み、机を前に何かを書き続ける。見張るブルー、見張られるブラック。そしてついにブルーとブラックの対面の時がやって来るのだが…。
これだけにすぎない物語がなんとも面白いのである。
オースターは「ニューヨーク・トリロジー」と呼ばれることになる三部作―「シティ・オブ・グラス」、「幽霊たち」、「鍵のかかった部屋」(白水Uブックス)―において「なにも起こらない」「どこでもない」場所に迷い込んだ人物が「誰でもなくなってゆく」世界を彼自身の方法で構築してゆく。カフカやベケット同様、オースターもまた主人公に待機―いわゆる「ゴドー待ち」―を強いるという退屈きわまりない状況を設定した上で、むしろその状況を逆手にとるように、彼らしいやり方で軽やかに「物語の関節」をはずしてみせたのである。
ボルヘスによって「中間部が欠落した作家だ」と喝破されたカフカや、フィクションに興味を失ったベケットとも違い、オースターは実に読み応えのあるエピソードで中間部を埋めながら、カフカ/ベケットでさえ到達できなかった地点へと読者を導いていく。オースターの手に掛かると、独立したかに見えたそれぞれのエピソードはたちまちのうちに自己組織化をはじめ、新たな関係の網の目を構築していくことになる。もちろん彼の描くエピソード内の「小さな物語」の面白さもさることながら、オースターの魅力はなんといってもナラティブ(語り)にあるだろう。静謐にして透明感があり、硬質な手触りの奥にセンチメントが滲む散文には詩の趣きさえある。それが彼独特のフィクションと出会うとき、えも言われぬ芳香を放つ。もちろん日本語に移されたナラティブを語る場合、柴田元幸という類い稀な翻訳家の存在を抜きには語り得ないことは百も承知だけれど、そのことについて触れるだけの紙幅がないので、いずれの機会に譲ることにしたい。
本書で中心をなす議論は「書物をめぐる孤独」である。人は本を読むとき孤独を排除することはできない。本/文章を書くこともまた、孤独を招き入れずにはおかないだろう。そんなメタフィクショナルな考察を差し挟みながら、オースターが我々に問いかけてくるのは「読むこと」「書くこと」の孤独であり、それはそのまま「見張ること」「見張られること」、「追跡すること」「追跡されること」の孤独へと重なっていかざるを得ないだろう。穿った見方をすれば、そうした部分はオースターが仰ぎ見た二人の巨人―フランツ・カフカとサミュエル・ベケット―の作品のリスペクトとして現れているといえなくもない。ブルーによるブラックの追跡劇はベケットが「モロイ」(白水社)で描いてみせたモロイを追跡するモランに重ねることもできるだろうし、ブルーによるブラックの監視はカフカが「審判」(白水Uブックス/新潮文庫/岩波文庫/角川文庫クラシックス)で描いたヨーゼフ・Kの秘密が衆人に知れ渡ってしまう不可解な監視システムを連想することも可能だろう。オースターのカフカ/ベケットに対する眼差しはもはや影響を受けたなどというロマンチックなレベルではなく、この二人の巨人の仕事を呑み込みながら後継者たろうとする大いなる自覚が漲っているとはいえないだろうか。少なくとも「ニューヨーク・トリロジー」の頃のオースターにはこの二人の後を追って、文学史に連なろうとするような気迫が感じられる。
いずれにせよ、カフカ/ベケットとオースターの関係については遠くないうちに批評が書かれるものと期待している。(ちなみに、アラン・ロブ=グリエはオースターの「ニューヨーク・トリロジー」を高く評価し、アメリカの大学での講義用テキストとして採用したという話を何かで読んだことがある。どんなことを講義したのかぜひ聞きたいものだ。)
「エレガントな前衛」、オースター文学を柴田元幸氏はそう命名した。それにしても何ともうまいキャッチフレーズではないか。柴田氏曰く、ヨーロッパにはカルヴィーノのように「エレガントな前衛」と呼びうる作家はいるけれど、アメリカではオースターがはじめてではないか、というのだ。カフカ/ベケットの衣鉢を継ぐ前衛性をエレガントな文章で包み、小さな物語を巧みに配しながら、読者の気持ちを掴んで離さないオースター。一級のストーリーテラーにして文章家、そして新しい文学の牽引者が描く「なにも起こらない」小説の面白さを存分に味わっていただきたい。