誰かの家に招かれた時、あなたはきっとそれを見つける。マントルピースや書棚に、家族の写真に紛れてそれは飾ってあるかもしれない。壁に立てかけてあるかもしれない。洗面所を拝借した時、蛇口の近くにちょこんと乗っているのを見るかもしれない。
それは観光地のひなびた土産屋で売られているような奇妙なスーベニールだったり、壊れたおもちゃだったり、業務用の機器だっだり、何だかよく分からないオブジェだったりする。どうしてこんなものが大事そうにディスプレイされているのだろう? あなたが家の主人に尋ると、彼らはちょっと嬉しそうに、あるいはとまどいながらもその「もの」にまつわるとっておきの物語を話してくれるに違いない。
「もの(ごと)を真剣にうけとめる」、というタイトルがついたこの本は、そんな個人的な思い出と切り離せない奇妙な「もの」を集めた本である。見開きのページの右側にその「もの」の写真があり、左側に持ち主の思い出話が添えてある。可愛らしい版型で、ちょっとピントが甘めのふんわりとした写真もセンスが良く、パラパラめくってビジュアルを楽しむコーヒーテーブル・ブックとしても充分アピールしそうだ。著者自身がお気に入りの雑貨をカメラで撮って、短いエッセイをつけた片岡義男の『彼らと愉快に過ごす』にも似ている。
しかし、写真の「もの」持ち主たちの語る思い出は、単なる「お気に入りの雑貨」を越えた個人的で濃密な世界に私たちを誘う。
その多くは喪失の記憶にまつわる品だ。肺ガンで死んでしまった母親のために作ったプリントTシャツ。小さな時、母親とつきあっているアル中のボーイフレンドが嫌いで、彼を呪うために作ったブゥードゥー人形。高校時代のガールフレンドが誕生日プレゼントにくれた海軍のプラスチック爆弾。母がいつも座っていたカウチソファの切れ端。セックス・フレンドがベッドの隙間に落としていったヘアピンのコレクション。
亡くなった肉親、二度と会えなくなってしまった友だち、そして別れた恋人。彼らは決して消えない小さな切り傷のような、奇妙な思い出の品を残していく。
幼い時に執着したおもちゃを再び手に入れる人たちもいる。漫画家のジェイムス・コチャルカが大事にしている黄色いブタのゴム人形は、子供の時に友だちに盗まれたものだ。コチャルカは大学時代、偶然にその友だちの家を訪ねる機会があり、彼の部屋に忍び込んでこの人形を盗み返した。彼らはフリー・マーケットやスリフト・ショップで、小さいときに大事にしていた品と再会する。精神を病んで以降、疎遠になってしまった知り合いをフリー・マーケットで売り手として発見する人たちもいる。そうした知り合いから、作家のミミ・ポンドは解剖学に使う人形を、哲学者のマーク・キングウェルは壊れたフィルム投影機を買った。
パンナム空港の搭乗口案内の看板や古いポスター、小さな松ぼっくり、葉巻の空き箱、ミッキーマウスの形をした液体せっけん入れまで。どんなささやかなものにもストーリーがあり、まるで短編小説集を読んでいるかのようだ。ここに集められた七十五の「もの」にまつわる物語は、ちょっと可笑しく、ほんのりと悲しく、不思議に胸をしめつける。