「ミステリーの女王」の称号で親しまれたアガサ・クリスティー(1890~1976)は、毎年12月に新作を発表することを常としていたそうである。そこで出版社は「クリスマスにクリスティーを」というコピーを思いついた。クリスマス・ギフトに女王の新作を贈ろう、という提案は非常に魅力的だ。しかしクリスティーの全作品がクリスマス・ストーリー向きの可愛いものか、というと怪しいものである。たとえば後期の傑作『終わりなき夜に生まれつく』(クリスティー文庫。以下断りない限り全て同じ)は恋人へのプレゼントにもっとも不向きな作品だし、マザー・グースの歌詞を題名に戴いて一見とても可愛らしい印象のある『ポケットにライ麦を』などにも最後まで読むと思いがけず黒い描写があることがわかる。クリスティーという人は、時として呆れるほどに意地悪になれるのですね。
今回紹介する『ポアロのクリスマス』は、彼女が1938年に発表した作品だ。題名に相違して、クリスマスの雰囲気の暖かさなどまったくない小説である。クリスマスという時候の要素は、作中人物を一堂に会させるための口実として用いられているにすぎない。だから読者も頭を切り替えて、クリスマス・ストーリーの温もりではなく、知的遊戯の怜悧な切れ味を楽しむ準備をしないといけないのだ。以下にあらすじを書いてみる。
南アフリカのダイヤモンド事業で財をなしたシメオン・リーという老人がクリスマスのイベントとして家族を邸に集まらせようと決意する。彼は妻との間に三男一女の子供を儲けたが、そのうち娘のジェニファーはスペイン人の美術家と駆け落ちし、すでに死亡していた。クリスマスの催しには、彼女の娘ピラールも参加するのである。シメオンの金を着服して出奔し、行方不明になっていた息子のハリーも久しぶりに戻ってきた。
惨劇はクリスマス・イブの晩に起きた。邸内に破壊音と奇妙な悲鳴が響きわたる。家族は老人の部屋に駆けつけるが、すでにシメオンは何者かに襲われて絶命した後だった。室内は調度品が毀されるなどしてひどく荒らされ、床が血だらけになっていた。不思議なことに、部屋の扉は内側から鍵で施錠されていたのである。つまり密室状態だ。この事件の謎に、その地に居合わせていた探偵、エルキュール・ポアロが挑むことになる。
1920年に『スタイルズ荘の怪事件』でデビューを果たしたクリスティーは、1920年代にはオリジナルのスタイルを求めて試行錯誤を繰り返した。作品の出来が安定するのは1930年に『牧師館の殺人』を発表してからで、以降はおそるべき勢いで傑作を量産するようになる。1930年代の作品は、まったく外れがないのである。おそらくこの時期のクリスティーは、次々にアイデアが浮かんで止まらない状態だったのではないか。よく言われるように彼女の作品には〈意外な犯人〉を扱ったものが非常に多い。そのオリジナル・アイデアの初出は1930年代の作品に集中しているのだ。ネタばらしを避けるために詳述は避けるが、『ポアロのクリスマス』もそうした作品の一つである。
もちろん、素晴らしいのはアイデアだけではない。重要な手がかりをいかにもさり気ない感じで文中に埋めこむ。登場人物の台詞や動作に二重の意味を持たせ、探偵だけがそれに気づくように仕向ける。思わせぶりな行動をする人物を登場させて、読者に疑いを抱かせる。この時期のクリスティー作品では、そうしたミステリーを魅力的に装飾するための技巧が見本市のように惜しげもなく提示されている。『ポアロのクリスマス』は、その代表格といってもいい作品で、小説のほぼ全域にわたって謎を構成するための主要なパーツがちりばめられているのだ。しかも憎らしいことに、読者がそのパーツを拾い集めながら推理をするため注意深く本を読み始めると、否応なく間違った手がかりを拾ってしまうような罠がしかけられているのである。
――プロットは綿密に計算しつくされ、全体の構成上無意味なものや配置ちがいはいっさいなく、とりわけ読者は、手掛かりはすべて正々堂々と提供されていたというあの大きな満足感を抱く――たとえその重大な瞬間に、なぜかぼんやりと窓の外を眺めさせられたとしても。(イギリスのミステリー作家ロバート・バーナードの『ポアロのクリスマス』評。秀文インターナショナル『欺しの天才』より)
バーナードも指摘しているが、犯人の計画が複雑すぎる、第一の犯行に比べて第二の犯行が稚拙すぎる、といった欠点もある。だがそれを補って余りあるほどの知的遊戯が楽しめる作品なのだ。いろいろ楽しみどころはあるが、変わり者の名探偵が好き、というようにキャラクターの魅力でミステリーを選ぶ方にも本書はぜひお薦めしたい。本書におけるエルキュール・ポアロの活躍は、なかなかに謎めいていて素晴らしいのである。真相に到達するまでの過程で、ポアロはいくつか不思議な行動を取る。そのうちの一つが「自分自身見事な口ひげを生やしているのに、なぜか付けひげを買ってくる」というものなのだ。それを知った登場人物たちは頭をひねる。ひねりたくなるというものではないですか。