「よりみちパン!セ」シリーズは、「中学生向け」だという。このシリーズには小熊英二氏の『日本という国』もある。卒業式・入学式の日の丸・君が代問題の意味がわかり始めているはずの中学生に、「国家」について、あるいは「国家」という考え方が人間をどのように縛り、あるいは翻弄してきたかについて考えさせるというのは、いいことだと思う。
中学生向けだからということなのだろう。文体はやさしく、ほとんどの漢字にはルビがふってある。イラスト、写真、四コマ漫画、パラパラ漫画が大量に入っている。だが、親しみやすく、わかりやすくはあっても、決して「子供向け」とは思わない。「子供向け」の衣を纏うことによってかえって可能かもしれないやり方で、著者は率直な自身の真情を語っている。
表紙では、海から昇る大きな太陽をバックに、イラストの身体に顔だけは写真の姿で立つ著者が、吹き出しで自己紹介をしている。
「ぼくが著者の鈴木邦男です。日本のためによかれと思い、四十年間『右翼』をやってきました」
胸に大きく「S」と書かれているから鈴木の「エス」とスーパーマンを掛けているのだろう。
自分自身を正直に見つめなおし、「右翼」の根本精神というべき「愛国心」に「失敗」と付けているのは、かなり勇気がいったのではないか。
著者は「右翼」であるが、例えば「愛国心教育」の強制に反対している。なにしろ著者は「『お前は本当の愛国者か』と言われると自信はない」「『こころ』を強制されることだけは、まっぴらごめんだ!」というのである。
各章のタイトルも、そうした著者のスタンスをわかりやすく反映している。
第1章 「愛国心」がきみを追い回す
第2章 「右翼」と「左翼」は、ひとりの人間のなかにいる
第3章 少年は「愛国心」で人を殺した
第4章 「宗教」が認めた「暴力」
第5章 気がつけば「ぼくは右翼」
第6章 「お前はつかまりたかったんだね」
第7章 失敗したから、道は開けた!
第8章 でかい「正義」に気をつけろ!
どうもこれは「右翼批判」ではないかと思われるような文句が続いている。
さらに著者は、愛国者がよく口にする「美しい国」「豊かな日本の四季」のような紋切り型の日本賛美を疑っている。愛国心の理由が「四季」や「美しさ」だというなら、「砂漠の国や一年中氷に閉ざされた国の人々は、自分の国であってもそんな国には愛国心を持ちようがない」ということになるからだ。
著者は、愛国心ばかりでなく主に宗教などが楯にする「愛」そのものについても懐疑的だ。「愛」故に人は人を殺すことがある、ということへの真っ向からの批判は、一般的に語られる「右翼」のものではない。「テロを否定する」と明言する著者がさらに「宗教的なるもの」からの解放を求めている、となれば、左翼陣営が批判する盲目的右翼のあり方とは、完全に一線を画している。というより、新左翼へのシンパシー、新左翼のリーダーに対して著者自身が抱いていた劣等感などが素直に書かれており、「右翼」を体現する立場の人が書いたものとは思われない。
少年時代の著者の写真と並んで、浅沼社会党委員長刺殺事件の犯人である17歳の山口二矢少年と、三島由紀夫と共に二十五歳で自決した森田必勝の写真が載っている。同い年の「山口少年」の行動に衝撃を受けたことが、著者の右翼活動のスタートラインだと記され、三島由紀夫自決事件の衝撃によって右翼活動に本格的に没頭することになった子細についてもページが割かれている。若々しい三人の写真が同じページに並べられているのを見ると、複雑な気持ちになる。若き右翼であった三者が、「みんな少年であった」という括り方をされているからだ。
他の二人に比べて「自分はオロオロするばかりだった」という著者の韜晦は真実だと思うが、彼らへの憧れじたいが失われていないことは疑いの余地がない。自らの「主義」を疑う著者も、彼らに対する「責務」、人生を賭した彼らへの「返答」の必要性については、今も迷ってはいない。
若き日のエモーションは「主義」を越えるということか。その意味で本書は鈴木氏の、党派を越えた「青春記」の試みであり、人生を一巡りした先での、初心への回帰を告げるものである。
本書には、江戸時代の日本は非武装中立だったし、もともと謙虚な国だったが、明治時代に自虐的な考えにとりつかれたところから、自らを「悲劇の主人公」に見立てたり思い上がったりしたという、現在に至る右翼思想の変遷への考察がある。これは、第二次世界大戦以降を「自虐史観」と決めつける現在の保守的な言説の趨勢を批判するものである。
著者は右翼としての「失敗」談を綴りながら、たった一人で立つ人間としての自分がどのような存在であったかを、断罪し、見直している。そこには自らの「責任」を認める誠実さと柔軟さがある。さらに、国家も人生も同じく「失敗したら謝る」「間違えたら謝る」べきだと考え、日本のおかした「侵略」の事実や「戦争責任」を明確に認めている。
ただ彼が、「非合法路線」をやめた結果、「右翼」である必然性が失われたと推察されるということは、やはり「右翼」にとって、「非合法」こそがアイデンティティであったということなのだろうか。いや、そうとも言えないだろう。そうした「非合法」へのロマンチックな依存の傾向は、「右翼」だけのものではないからだ。
この一冊の本の末尾には結局、「愛国心は深く複雑だ」としか記されていない。どの考え方にしても、押しつけがましいところはない。「こんなに感じのいい人が『愛国者』『右翼』だったのなら、『愛国者』『右翼』も悪くない」と中学生たちは感じるだろうか。そうではないだろう。少なくとも「『愛国者』を疑え」「『右翼』の保守的な依存心に取り込まれるな」という思いは伝わるはずだ。「右翼」「愛国者」を批判する他者を受け入れる「謙虚さ」を身上とすることで、著者は生まれ変わろうとしている。そうしなければ「愛国者」にはなれないというディレンマに、鈴木氏の現在の真実がある。