日本のテレビで時代劇が永遠の定番であるように、英国のテレビドラマにも「コスチュームもの」はつきものである。コリン・ファースがミスター・ダーシーを演じて一躍人気者になったのは90年代のBBCシリーズ『高慢と偏見』だし、日本ではおそらく『ロード・オブ・ザ・リング』のボロミアとしてのほうが通りがいいショーン・ビーンは長年『シャープ』の主演を務めている(また新作を撮っているとの噂)。クリスマス時期になると『クリスマス・キャロル』が必ず放映されるのは、『忠臣蔵』だと言って言えないこともない。
というわけでこの『クランフォード』も昨年秋にBBCでドラマシリーズ化され、そこそこに話題になった。ただし、このシリーズからスターは出ていない。なにしろ、登場するのは大半が老嬢か未亡人。それも、流行を追って着飾るのは「下品なこと」という「常識」がまかり通る小さな町での物語なので。
さすがにそれだけでは華がないと思ったのか、BBCドラマ版では若い医者を登場させていたが、本来の物語の中では、若い男女はあくまで脇役でしかない。登場する若い独身女性はほぼイコールで各家庭のメイドたちだし、若い男性に至っては、メイドを通じて噂話を持ち込む以上の役割を与えられることがほとんどない。だからこその邦題『女だけの町』であって、「クランフォード」と言われてもぴんと来ないだろう日本人読者にとって、これほどぴったりの邦題もない。
物語は、老嬢やら未亡人やらが中心の小さな「社交界」とその周辺での、見栄の張り合いだのささいなけんかだのに終始する。語り手は20マイル先の大都市ドランブル(マンチェスターのこと)からしばしばクランフォードを訪れる若い独身女性、メアリー・スミス。
彼女がクランフォードで滞在するジェンキンズ姉妹の家を中心に、上品なご婦人が歩いて回れる範囲での「大事件」や「悲劇」が語られる。が、そこは「上品でつましい」小さな社交界での「大事件」や「悲劇」なので、老婦人がかわいがっている牝牛が石灰水のかめに落ちたとか、こそ泥が出たとかいうレベルである。上品でつましいお茶の席ではケーキ類はごくわずか(大量に並べるのは品がない)、たいがいの家が、貴族風(と本人たちが信じている)の上品さを看板にしているけれど、実態はメイドひとりが関の山(当時の常識では、これは中流最下層ぐらいの家庭)。なので、引用のようなことになる。少し長いが、この物語を象徴する部分である
(以下引用)
「たとえば、ミセズ・フォレスターがそのちっちゃな家でパーティを開いた時に、かわいい女中さんがソファに坐っているお客さんにむかって、すみませんがその下からお茶盆を出させて下さい、なんて言っても、皆この珍妙な行動をきわめてあたりまえのこととして受け取り、家庭内のしきたりの話題になると、この家には使用人の食堂や食卓が別にあって、女中頭や執事を雇っていることはよくわかっていますよ、というような顔で話を続けたのです。じつをいうと貧民小学校出の女中さんが一人いるだけで、その赤い短い腕ではお茶盆を一人で二階へ運び上げる力がないので、こっそり奥様に手伝ってもらわなくてはいけなかったのです。その奥様は今でこそ堂々と椅子におさまりかえって、どんなお菓子が出るのやら、というような知らん顔をしていますが、じつは午前中いっぱいかかって、パンやスポンジ・ケーキの準備に大わらわだったことはご本人が承知で、私たちも承知で、私たちが承知なことはご本人も承知で、私たちが承知なことはご本人も承知のことを私たちも承知だったのです。」
なんともまあ、本人たちが大まじめなだけに笑うしかない光景である。しかも、クランフォードの社交界に属しつつ、なかば部外者かつ大都会住まいのメアリーが語ることで、ばからしさがさらに際立つ。コップの中の嵐を眺めるメアリーの目はときに辛辣だが、クランフォードのばあさんたちへの愛情にあふれてもいる。
そして、この女だけの社交界には、なんともいいタイミングで救い手としての男が登場する。父を亡くし、姉を亡くして途方に暮れるミス・ジェッシー・ブラウンの元には、かつての求婚者が現れ、銀行の破産で資産をなくして下品と知りつつ自宅をお茶の店にせざるを得なかったミス・マティー・ジェンキンズの元には、インドで資産家になった生き別れの弟が戻ってくる。当時の世の中では、女ひとりでは現実社会に対処しきれなかったことを象徴しつつ、そんな都合よく行くかぁ、との突っ込みはありつつもハッピーエンドで大団円、という話である。早い話、この物語での水戸黄門の印籠は、外の世界で資産を築いた男たちなのである。
「女だけの町」の初出(ディケンズ発行の週刊誌『家庭の言葉』に不定期連載)は1851年、単行本の初版が1853年である。つまり、世界大博覧会の年から数年、物語中の出来事はそれよりほんの少し前と考えていい。大英帝国が浮かれ騒ぎつつ、産業革命以降のさまざまな問題も吹き出しつつあった(チャーチストの大デモ行進は1848年)時代ということになる。そんな時代がクランフォードに及ぶのは、鉄道事故と銀行の倒産。ともに、黄門様のご印籠が最終的に解決している。そんなわけはない現実は知りつつ、こうだったらいいな、という願望にもあふれている。スパイスたっぷりながらアイシングもてんこ盛りのケーキ、というところか。