正月気分もそろそろ抜けてきた1月のある休日、散歩がてら買い物に出た。すぐに、なんとなく怪しい街の様子に気がついた。
駅前やファミレスの前にたむろする若い男女の群れが、やけに目立つのだ。男たちは一様に細身のダークスーツに先の尖った靴、髪はたいていおっ立っている。女たちはというと、短いスカートにナマ脚に流行のブーツ、ブランドのバッグにチャラチャラのついたケータイ、濃いめのアイライン&つけ睫毛。
なんだなんだ、ホストクラブとキャバクラの大「合コン」でもあるのか、と馬鹿な想像をしながら、ふと、その日が「成人の日」だったことに思い至ったのだった。
こういった「世も末」状況というのは「幕末」にもあった、と本書にある。いわく「素人が芸能人化してきたのである」あるいは「素人娘がちょっと化粧すれば、たちまち水商売化してしまう世の中なのである」。これは嘉永元年(1848年)あたりの時代背景についての本書の記述である。それから十数年ののち、264年続いた江戸幕府の時代はあっけなく終末を迎えることになる。
本書、さすがに『週刊新潮』の連載(いまも続いていて、続編に『井伊直弼の首/幕末バトル・ロワイヤル』がある)だけあって、エンタテイメント度が高い。読ませる。前述のように「幕末」と「いま」がなんとなくオーバーラップして見えてくるのも、著者の筆の妙である。
テーマは「権力」。天保の改革から黒船来航まで、およそ30年間の幕府内権力抗争模様が、政治、経済、社会、文化、事件、などなど、さまざまな切り口で45話、それぞれ読み切りで詰まっている(つながってもいる)。
当時の権力者といえば「老中」。なかでも「老中首座」といえば、いまならさしずめ内閣総理大臣といったところか。いや、それ以上か。この最高権力の座をめぐって、足をひっぱったり、ひっぱられたりのバトルが繰り広げられる。
御三家、御三卿の顔色をうかがったり、人脈づくりのために袖の下攻勢をかけたり、将軍の威光をバックボーンにしようと大奥のご機嫌をとったり、陰謀あり、裏切りあり、醜聞、艶聞、贈賄、収賄、パワハラ、ゴマスリ、密告、告発、揉み消し、捏造、スパイ、乗っ取り、いまあることはすべてある。いやあ、ヘタな小説よりも数段面白い。
前半は、天保の改革の当事者、水野忠邦(越前守)を軸に、後半は阿部(伊勢守)正弘を中心に、話が展開する。なりふりかまわず首座をめざす忠邦と、若くして、なるべくして首座となる正弘。ブルドーザーの忠邦と、優柔不断の正弘。ここらへんの対比は、それぞれ勝手に現代の政治家になぞらえて読むと、なお面白い。
あまりの猛進ぶりに各方面から不評を買い、石持て追われるように罷免される忠邦と、黒船来航で無策ぶりを露呈し「幕府滅亡の元凶」ともいわれる正弘、ともにその末路には、冷たい風が吹き渡る。本人の意思とは関係なく、最高権力者たちの行き着くところは、荒野のような場所である。
ところで、天保の改革で庶民に質素倹約を強いた忠邦だが、本人はまったくワイロOKで「苦しゅうない」の人だったらしい。ある御用商人による忠邦への贈答品メモというのが残っていて、さすがに現ナマについての記述はないものの(実際には巨額の現ナマが動いたらしい)、鯛、鰻、初鰹、寿司、菓子といった(もちろん最高級の)品々を折々に贈ったという「物証」になっているという
そのメモに「粕庭(かすてい)羅(ら)」の文字が頻繁に出てくるそうだ。あのカステラである。
現ナマの隠語かとも思ったが、著者によると違うらしい。カステラの箱の底に小判が隠されていて「むふふっ、山吹色の粕庭羅じゃな。××屋、おぬしもワルよのう」というのでもないらしい。ただのカステラである。当時としても、それほど高級な菓子ではない。忠邦が無類の甘党だったというわけでもない。どうも、忠邦の家で消費したのではなさそうだ。
さてここで問題です。忠邦に頻繁に贈られたカステラは、その後どこへ行ったのでしょう?
ヒントは書きました。