横浜スタジアムの周辺には時折、駅で拾って来たと思われる無料の情報誌を自分の周りに綺麗に並べて扇状のステージを作り、その真ん中で赤い歌本を片手に、サビの効いた声で延々と演歌らしき歌を唄っているおじさんがいて、彼が何の曲のどの部分を唄っているのか、もしかして、ただ思いつくまま気分良く鼻歌を唸っているだけなのか、コブシのまわりすぎで歌詞がドロドロに溶けていて全然判別出来ないのだけれど、行き交う人々に目もくれず自分の歌に没頭しているそのおじさんのことをぼくは、彼の小鼻の形から勝手に「横浜公園のサム・クック」と呼んでいる。
歌というものはとっても個人的で、その人の内面や生活がそこにはそのままにあらわれる。そういった歌が刻み込まれたレコードというメディアは、もっとも個人性の強い芸術として、ぼくたちに「個人」の世界の広さと深さを教えてくれる。誰かの日記を読むことにも似て、しかし、そこに映されているのは日常のあれこれではなく、歌はその人の非日常であるから、多分、歌を聴くということは、一人一人がそれぞれに抱えている日常の向こう側を覗き見る行為なのだ。
レコードは、世界の向こう側と対話している人間の行動を、黙って確実に記録する。これはすごいことだが、こうして作られた非日常の記録は、コピーされ、ラジオで流され、お店に置かれることで、とりかえのきかない個の発露でありながら、それがそのまま売り買いの出来る商品となって、不特定多数の無意識をトランスさせる力を持つこともできる。
このように、個人と多数とをダイレクトに結びつけることによって、20世紀に音楽はあらためて莫大なパワーをチャージして、その備蓄がさらにあたらしい個性を歌の周辺に呼び寄せることにもなった訳だが、さて、この本は、そのようにして世界の向こう側とつながってしまった人たちによる、見事なまでに純個人的な歌と生きざまの見本市である。
第一章はシャッグス。第二章はタイニー・ティム。第三章はジャック・マデュリアン。第四章はジョー・ミーク…… と続いてゆく、この列伝の登場人物たちが唄った歌・作った音楽は、どれもこれも彼らの心と身体から真っ直ぐにあらわれたものであり、それらはダイレクトすぎて、効率と能率をモットーとする規格品によって大半が出来ているぼくたちの生活に、それらを位置させることはかなり難しいようにも思える。
ダニエル・ジョンストン、シド・バレット、ワイルド・マン・フィッシャー、キャプテン・ビーフハート……彼らの歌は、日々の生活を支える日常品ではなく、ぼくたちの心の向こう側に広がっているイマジネーションから直接汲み取られてきた、本来ならば生まれたその場で揮発してしまう特権的な一瞬のつらなりである。
そして、そういった貴重な時間は、レコードされることで何度でも、いつでもぼくたちの日常に立ち戻って、そのルーチンに一撃を加えてくれる。著者アーウィン・チェシドは、この反復する一撃に何度も打ちのめされながら、こうした矛盾を定着させてくれた人々について(時にはマゾヒズムを伴ったジョークを混じえて)大いなる熱意でもって書き記している。
起きてから寝るまで(または、寝ているあいだでも!)、多分、現実からほどほどに距離を取らせて、なんとなく日々をやりすごさせるための必要から、音楽をずっと浴びせかけられている現在のぼくたちにとって、スピーカーから聴こえて来る音によって日常にヒビが入るという体験は、まったく大変なものだと思う。20世紀ほど無節操に大衆音楽を欲した世紀はないように思うが、その中にあってさえ、なお異端視され、退けられ、見捨てられてきた、本当に例外的なポップスの深い深い井戸を、この赤い本を片手に覗いてみよう。
もしかすると、その底面は意外と近くにあり、冷たい水面にゆらめいているのはあなた自身の顔かもしれませんよ。