——(以下、北條一浩) 穂村さんの対談集『どうして書くの?』が出まして、これはとても重要な本だと思い、ぜひインタビューをさせていただきたいと思いました。7人の方との8つの対談が掲載されていますが、期間は2001年から2008年に渡っています。今回あらためてゲラを通読されたと思いますが、ご自身の感触として、一冊にまとまってみていかがですか?
穂村 わりと真面目なんだなと思いました(笑)。何人もの方に同じことを聞いているし、いつも気にしていることがあるのだな、ということがわかりますね。
ぼくは普段から「現実は現実だ」とは思っていないようなところがあって、現実というものが現場だけで成立しているとはあまり考えていないんです。人間が抽象的に考えることや理屈が重要だとずっと思っている。
しかしそういう理屈を現実の中に出力して表現しようとすると、ゆがむんですね。ゆがむからおかしなことを言ったり書いたりしているように思われるかもしれないけど、その中身はむしろぼくのほうがシンプルというか、「現実は現実である」という考えの人より、ずっと同じことばかり考えているような気がします。
ただ自分が書く本だと、不特定多数の読者という現実の層をつきぬけて着地しないといけないということになりますが、対談の場合、目の前にいる具体的な個人が相手なので、ふだん気にしていることや、他の人はどう思うんだろうという疑問を素直にぶつけられる。だからわりと子供みたいになりがちです(笑)。
—— タイトルからして「どうして書くの?」ですしね。
これは編集者が付けたタイトルで、いくつか出た候補の中に『どうしてどうしてどうして書くの?』というのがあって、「どうして」2つを削ってもらいました。ぼくが出した案は、どうも気取りすぎだというのでボツでした。
—— 差し支えなければボツ案を教えてください(笑)。
『言語少年漂流記』というのを考えました。もちろん、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』にかけていますが、音もいいし、「いいではないか!」と。しかし気取りすぎということでボツになり、確かにゲラを読んでみると、『どうして書くの?』のほうが内容に則していることは認めざるを得ない(笑)。しかし『言語少年漂流記』は、いつかどこかで使いたいと思っています。
—— それぞれの対談の初出はさまざまですが、これはその都度、各雑誌の編集部のほうから、誰それと穂村さんで対談してください、という依頼があったということですね?
そうです。それぞれ細かいテーマ設定はありましたが、物書き同士ですから、基本的に「言葉」や「書くこと」をめぐってということになります。一青窈さん以外は皆さん小説家で、その中で男女の性差があり、年齢差があり、ぼくは短歌をやっていますからジャンルの違いがあり、ということですね。長嶋有さんと川上弘美さん以外は、初対面の方ばかりでした。
—— 最初の高橋源一郎さんとの対談で、「自分たちは近代の人たちに比べて、心のレベルでも表現者としても劣化の一途を辿って、底を打ってしまったんじゃないかという恐怖」について語られています。で、「本当にそうなのか」という「知りたいこと」につながっていくんですが、そのあと「鷗外や漱石は、人間的に、僕たちよりも何倍も何十倍も立派だったということはないんですかね」という問いかけをされていて、このあまりのストレートさが新鮮でした(笑)。
昔の座談の名手のように、話がどっちのほうに転ぶかわからないというような感じで、洒脱にやるなんてできないし、聞きたいことがあるのだからそれはまず聞きたいわけです。画家や絵描きさんと対談する時は、「ピカソの絵はどれくらい巧いんですか?」「明らかに自分より巧いと思う画家は誰ですか?」と聞いたりします。寺田克也さんに聞いたら「んー、ベラスケスかな」と言っていて――確かベラスケスで合ってると思うんだけど――ひどくそれが面白くて。ぼくだと自分とボードレールとどれくらいレベル差があるかなんて、ぜんぜんわからないんです。時代も言語もぜんぜん違う。じゃあ明らかにレベル差がわかる上限は誰なのか、それ以上になるとわからなくなるのはなぜなのか、そういうことに関心があります。
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