B.J.インタビュー vol.4 by Hojo Kazuhiro 2009/4/15 明治学院大学・四方田研究室にて
―― 『濃縮四方田』を拝読して、改めて四方田さんが、映画というものに対して一貫して関心を持っておられるその持続性に驚きます。映画の本もむろん非常に多いわけですが、そのようなご自身について、今の地点からどう思われますか?
四方田 いろいろな答え方があると思いますが、3つくらい言いましょう。1つは単純に映画が好きということ、観たことがない映画を観ておきたいという気持ちがあります。あらかじめジャンルや国籍で観る/観ないということはしませんし、映画祭に行ったら、ちょっと気になったら観てしまえという感じです。新しい映画を人より早く観て、自慢して、なにかやりたいという気持ちは基本的にあります。中学校の卒業文集に、「大きくなったら、目が覚めたら郵便箱に試写状が3枚ほど入っているような、そういう人間になりたいと思います」とちゃんと書いていますからね(笑)。
―― 試写には今でもいらっしゃいますか?
四方田 行きます。なかなか時間が取れないけど、木曜金曜は大学の授業がないので、行ける時は行きます。
さて、映画への関心についてもう少し難しく、文化史的に意味付けをしますと、20世紀というのは、精神分析とファシズムと映画なんです。この3つがお互いにすごく関係しているし、3つはとても似ている。ファシズムというのは人を魅惑しますね。レニ・リーフェンシュタールが撮ったナチスのニュルンベルク大会など、観ていてワクワクする。学生に見せてもみんなすごいと言います。ローリング・ストーンズのコンサートを見ると、ああ、ナチスの美学をうまく使っているなと思う。ファシズムは見ていて心躍るんです。それに比べて共産主義はそういう美学を作ってこなかった。社会主義リアリズムなんて変に道徳的な図式主義でまったくつまらないわけです。
逆にいうと、ナチス以降の現代で、美しいものはどこかファシムズ的な構造にならざるを得ないとも言えます。リーフェンシュタールはその生涯の最後、海中にもぐって、ウミウシや珊瑚のドキュメンタリーを撮る。なぜか。美しいからです。それはベルリンオリンピックで黒人が走っている姿が「美しい」と感じるのと同じです。ですから、ゲッペルスなんかと違ってリーフェンシュタールは白人中心主義者ではぜんぜんないんです。美しいものはすべて許す、という立場は、ちょっとズレるとファシズムに行く。
『ファンタジア』(1940年)なんてディズニーのすばらしいアニメーション映画がありますが、あれがファシズムと同時代にあったことについて考えなければいけないと思います。いま観てもすごいですよ。ファシズムは、人間の無意識の情動に訴える。そして精神分析は、人間の無意識についての科学です。そしてまた夢というのは非常に映画に似ていると言われたし、映画というものは夢の工場だとか言われた。「まるで夢みたいだ」「まるで映画みたいだ」と人々は日常的に言ってきたわけです。
19世紀に無かったもので20世紀に出てきたものといえば、なんといってもこの3つだと思います。その意味で、自分は20世紀にずっと生きてきた人間だから、この3つに対して自分の意見を持たなきゃいけないと。ただ、私はこの3つについてこんなふうに考えているけれど、誰も賛成してくれないのか(笑)、このうち1つだけやる人はいるんです。ファシズムだけとか。ところがこの3つを対等に観て、20世紀の文化史を書いている本を、日本語ではまだ見たことがない。それをいつか書かなきゃいけないと思っています。
21世紀の人に向けて、20世紀ってこうなんだよと。21世紀にも無意識はあるでしょう。ただ、従来の精神分析のような形でかはわかりません。あれはウィーンのユダヤ人の、父親のすごい強権的な所から出てきたものですから。日本ではもっと別のものに変わらなければいけない。
そして私は、映画人としてファスビンダー、パゾリーニ、大島渚に注目してきました。彼らはいずれも枢軸国の中から生まれた才能ですね。
―― 日独伊ですね。
四方田 そう。彼らは、自分の親父たちが作ったファシズムに対する補償行為を映画で表したと私は考えます。70年代に東アジア反日武装戦線というのがありましたが、名前からして前の世代のアジア侵略に対する贖罪です。連合赤軍もあった。ドイツにはバーダー・マインホフ・グルッペ。イタリアに赤い旅団。70年代になぜかつての枢軸国からだけ、極めて真面目な若者たちがああいうテロリズムを行なったか。韓国にはないんです。なぜか。韓国はポスト・ファシズムじゃないからです。あの3人の監督を生んだこと、その国で70年代にテロルがあったこと、それは1930年代のファシズムの次の世代の心理的補償行為であった。ここからは政治学では解けない、やはり精神分析でないと解けないと思います。それが、映画に出てきたと思うのです。ですから、無意識の科学としての精神分析と、政治の美学化としてのファシズム、この両方を対等に見据えるのは映画しかないだろうし、この2つも映画を利用してきた。映画はどちらとも寝たわけです。
―― ファシズム、精神分析、映画の三者について書くというその構想は、どこまで進んでいるのですか?
四方田 ですから、今お話したところまでですよ(笑)。あとは外堀を埋めなければいけませんが、私はまだ勉強不足です。しかし、これまで自分がやってきた事の延長線上にあるのは確実ですし、これは避けては通れないと思っています。
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