今年、2009年6月24日は、高野悦子さんの40回目の命日でした。1969年6月24日未明、山陰本線の貨物列車に飛び込んで鉄道自殺を遂げてから、まる40年の歳月が流れたことになります。
40年という節目の年だからでしょうか、『二十歳の原点ノート』『二十歳の原点序章』『二十歳の原点』の三部作が新装版として復刊されました。これらはかつていずれも新潮社から出版され、ベストセラーになりましたが、時の推移とともに最終章ともいえる『二十歳の原点』以外は絶版になっていました。それがこの度、実際に書かれた大学ノートの日記の体裁を踏襲して、横書きのスタイルでまた世に問われることになったのです。時系列でいうと、「ノート」が14歳~17歳、「序章」が17歳~19歳、そして最も多くの読者を獲得した本丸ともいえる『二十歳の原点』が、19歳~20歳と半年、亡くなる2日前までの日記ということになります。
高野悦子さんは1949年1月2日生まれ。団塊の世代の最後のほうにあたります。ちなみにちょうどこの10日後、1月12日にはさる著名な作家が生まれていますが…… ピンと来ましたか? そう、村上春樹です。つまり、そういう世代の人だし、存命であれば、今年還暦、ということです。
私は『二十歳の原点』がベストセラーになった頃は子供でしたし、その時代の空気もよく理解はできませんが、なにかしら微妙なその余韻というか、残響のような空間なら、かすかに経験しているように思うのです。というのも、この人は同郷人だから。いや、同郷というと少し語弊があって、栃木県の宇都宮市(筆者の出身地)という場所が重なっています。彼女は栃木県の西那須野町(現在の那須塩原市)の出身ですが、中学を卒業すると、宇都宮女子高という高校に通うようになります。高校時代に彼女がよく本を買い求めた書店の名前が出てきますが、それらは宇都宮では知らない人はいないほど知られた書店で、私もまた、しょっちゅうたむろしていた場所でありました。
私が高校生活を送ったのは1978年~80年ですが、高野悦子の名前は、なんの特徴もない、のっぺらぼうの一地方都市――それでもいちおう県庁所在地だったりするのですが――の高校生たちのあいだで、時々ささやかれていました。いま思えば彼女が亡くなってこの時点でまた10年ほどしか時間が経過してないにもかかわらず、ずいぶん昔の人という印象がありました。そこからもう30年経っているかと思うと…… あ、すいませんいまちょっと遠い目になりました(笑)。
今の時代の高校生より、きっと少しだけ読書好きだった1980年ごろの高校生は、『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいる奴がけっこういました。その半分くらい、庄司薫を読んでいるのがいる。そして庄司薫の半分くらい、『二十歳の原点』は読まれていたように思います。特に宇都宮女子高の後輩の女の子たちには。
【夜、見知らぬところを歩くのは、本当に淋しいものだ。繁華街や大通りを歩くときは、誰でもが孤独なのでかえってやすらぎを感じるのだが、それが、遠くに燈のみえる田んぼ道とか、まっくらな電燈だけが場違いに明るい、そしてサラリーマン風の男が一人歩いている塀でしきられたアスファルトの住宅地を歩くときは、何ともいえずひとりぼっちの気持ちになってくる。】
――『序章』より――
これは宇都宮女子高から京都の立命館大学に進学した彼女が、ひとりアパートに帰宅する時の記述ですが、はたして高校生たちに、高校生だった自分にこの「ひとりぼっちの気持ち」が理解できていたでしょうか。
【立命から四条まで寺町通りを下って古本屋あさりをしたが、あの通りには4軒しかなかった。丸太通りに3軒位あったが、意外と本屋は寺町通りに少ない。1時間半位立ちづくめで疲れてしまった。】
こんな箇所を読めば、いまの、46歳のすれっからしの自分は、「ああ、あなたの時代だったらきっと、百万遍のあたり、京大の向かいあたりにいっぱい古本屋があったと思うよ」と、教えてあげたくなるのです。