光文社古典新訳文庫は、著者のファーストネームを表記しない方針を取っていて、確かにバタイユ、シュペルヴィエル、コクトーと表記されるだけでそれが誰だかわかるわけですし、「だってほら、古典じゃん」という版元の押し出し、みたいな空気もそこはかとなく感じるわけですが、例えば『マン だまされた女/すげかえられた首』などの場合、「マン? ああ、トーマス・マンか」と、1.5秒くらい脳の起動に時間がかかったりするのも事実なのです。そしてある時、『マンシェット 愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』という背表紙を見かけた時、お、あのフランスのノワール小説のジャン=パトリック・マンシェットね! と認識するのに約3秒、さらにこの奇妙なタイトルの本が、かつて自分が『狼が来た、城へ逃げろ』というタイトルで探していた本の新訳らしいと気が付くのにおよそ7秒ほどかかったのも、致し方ないことだと思うのです。
びっくりしました。マンシェットの小説がここから出るなんて。いやもちろん、ブッツァーティ『神を見た犬』とか、プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』とか、「これ、今まで日本語で刊行されたことあったっけ? 少なくともこの著者の文庫は無いよね」という本をいきなり「古典」として出してくる(古典文庫なんだから当たり前ですが)ことが時々あり、その心地よい驚きがこの文庫を常に要注目の存在にしていたことは間違いないのですが。
マンシェットという作家を知ったのは、たまたま古書店で手にとって読んだ『眠りなき狙撃者』が最初だったと思います。カバーに使われていた、荒涼とした海と断崖の写真、聞いたことはないけれど、マンシェット、という作家名の音の連なりもなんだか気になりましたし、早川書房や東京創元社ではない、学研から単行本で出るフランスのノワール小説なんて、なんだか面白そうだな、翻訳も、さいきん映画のこととかあちこちで書いている中条省平さんだし、という、いろいろな要素がブレンドされていて、手頃な古本価格が背中を押して……ということだったのです。
いやこれが良かった。グッと来ました。寒い。痛い。悲しい。虚しい。そんなネガティヴな形容詞がそっくりそのまま賛辞になるような読書体験。悲しいけれど(悲しいがゆえに?)最後はカタルシスを得られるとか、ぜんぜんそういうのじゃなくって、そう、「得る」のではなく、ただ奪われてしまうような、しかしそれでどこか気持ちがせいせいするような、そんな小説。この作家はいいぞ、ということで、学研から出ていた残りの2冊『殺戮の天使』『殺しの挽歌』をやはり古書店で探し、それがなかなか見つからず、どうやらハヤカワからもかつていくつか出ているみたい、特にポケミスで出ている『狼が来た、城へ逃げろ』というのは、なんともソソるタイトルだなあ、と思いつつ、月日が経ってしまったのでした。
『狼が来た、城へ逃げろ』(岡村孝一訳)は、コレクターの中でもかなりのレア・アイテムらしく、日常的に古本屋に行っているぼくなどもいまだに一度も見かけたことはありませんが、今回のような形で読めるとは思いがけない贈り物に出会った気がします。だいいち、『愚者が出てくる、城寨が見える』が刊行されるにいたった経緯というのが実に面白い。「城寨」という、見慣れない、というより見たことのない単語も、それから「狼」はどこへ行ったの? なんでそれが「愚者」になるの? といったこのあたりの事情は、本書の「解説」や「訳者あとがき」を読んでのお楽しみということにしておきます。本を世に出したいという情熱、編集者と書き手との縁などなど、まさに「復刊」の妙が、そこにはあります。
さて、『愚者が出てくる、城寨が見える』のあらすじですが、まず、ジュリーという女性が出てきます。精神を病んで入院なんかもしていた、不安定な人です。彼女が、企業家で慈善家でもあるアルトグという金持ちに雇われ、その甥であるペテールという子の世話係になります。アルトグというのはなんだかちょっと胡散臭い人だし、ジュリーも子供の世話なんかできるのか? と思いつつ、まあ世話係としてそれなりに機能しているようなのを読んでいると、いきなり4人組のギャングにペテールともども誘拐されてしまいます。なんだこいつら? 目的はなに? と、思う暇もなく、連れ去られたアジトから命からがらの脱出劇に追跡劇、派手なドンパチに殺人、破壊の数々、血糊がビューっという、まあ、そういうお話です。
【ビビは屈みこみ、もう一度女の体を持ちあげた。女のせわしない呼吸で生温かい息がビビの首にかかる。ビビの脚の筋肉がぴくぴくと引きつっている。犠牲者の体とビビの体が擦れあった。勃起するのを感じてビビは神経質なくすくす笑いを洩らした。
その間にジュリーは右手を動かした。ビビの胸をすばやく探る。ピーコートの内ポケットのMABを掴み、男の体に銃弾を撃ちこんだ】
ジュリーがギャングの1人から「始末」されそうになる場面です。ここにあるのは徹底的に短いアクションの積み重ねです。持ち上げる・首にかかる・引きつる・擦れあう・勃起する・笑いを洩らす・手を動かす・探る・掴む・撃ち込む。この5行のセンテンスで実に10個の、それぞれ異なる、それぞれに意味を持つ動詞が次々にスイッチされていきます。動詞とはすなわちアクションです。マンシェットは、こういう場面で心理描写を挟むようなことは絶対にしません。あくまでクール。カメラは中景で、やや引いている、という按配です。まだ死んでいない女=ジュリーを「犠牲者」と書き、一瞬の後に「犠牲者」が入れ替わるというこの冷たさ。鮮やかさ。