さて、またしても前段が長くなったが、今回紹介するのは「ゴミ」と「ゴミでないもの」の区別がつかなくなった男の物語である。舞台は、戦後の高度成長期に近隣都市のベッドタウンとして広がり、発展してきた某市だ。ブロック塀に囲まれたハウスメーカー製の二階家が建ち並び、どの家も玄関ドアの目の前に鉄製の門扉をしつらえているのが滑稽でもある典型的な住宅街に、その「ゴミ屋敷」はある。
後期高齢者になろうかと思われるゴミ屋敷の主は、毎日まだ暗いうちに出かけ、街を一巡りして「ゴミ」を拾い集めてくる。屋敷のさまたるやすさまじく、敷地いっぱいに膨大なガラクタ、廃棄物の山が盛り上がり、下手につつくと蝿の大群が渦を巻き、ゴキブリが民族大移動を始める。足下には無数のうじ虫がうごめく。生ゴミが腐った臭いと空気のよどんだカビ臭さは、風に乗って周りにも広がっていく。
無論、近隣住民はたまったものではない。ゴミを片付けてくれと言うが、主は「ゴミじゃねェ」と聞く耳を持たない。市役所に相談しても「本人が『ゴミではない』と言う以上、私有財産を勝手に撤去できない」と、てんであてにならない。ゴミ屋敷の「ゴミ」はますます高く積み上がり、噂を聞きつけたテレビのワイドショーまで取材にやってくる。
「名所」と化した屋敷に面した道路には見物渋滞が発生し、不心得者が車窓から空き缶を道端にポイ捨てすることが、周辺住民の神経を逆なでする。ゴミ屋敷と一からげに自分たちの住んでいる場所が「ゴミ箱」扱いされる気がして耐えられないのだ。住民は再び主に直談判を試みる。が、返ってきたのは「うるせェ! お前には関係ねェ!」という罵倒だ。
そうなのだ。「関係ない」と割り切って、間に線を引いてしまえるのなら簡単なのだ。しかし、やはり話せば分かると思いたいし、話さなければいけないとも思う。それが逆に、向こうが断固たる線を引いてきた。「関係ねェ!」と言う権利があるのは、こっちのはずだ。さしずめ「逆ギレ」に遭った形の、ゴミ屋敷の向かいに住む主婦はこうひとりごつ。〈頭がおかしいんだ! 頭がおかしいんだ!〉。彼女は「分かろう」とすることをあきらめる。と同時に、これまでちょろちょろ漏れ出てきてはいたが、解放されてはいなかった憎悪が遠慮なく立ち現れることが許される。彼女はさらに言い募る。〈死ねばいいのよ! 死ねばいいんだわ!〉
この時点で、読者は引かれた線のこっち側にいる。彼女と一緒になり、非常識極まりないゴミ屋敷の主を憎む。作者によれば、憎悪の源泉は「漠とした悲しみ」であるという。悲しみを憎悪によって埋めようとするわけだ。が、憎悪には「敵」が必要である。敵の正体が分からなければ分からないほど、強く憎める。読者が憎悪を共有できるのは、作者からゴミ屋敷と、その主に関する情報を与えられていないからだ。
しかして作者は、そこから物語をひっくり返しにかかる。〈吉田夫人の四十二歳になった美咲(=ゴミ屋敷の向かいに住む主婦のこと)は気づかない。自分と同じような憎悪と悲しみが、その目の前の家に住む住人の中にもまた存在しているのだということを――〉と書き、ゴミ屋敷の主の「正体」をこれから明かすのだ、と宣言する。
主の名は「下山忠市」という。3章構成のうち、一番ボリュームのある第2章(章題は「家族」。ちなみに第1章は「ゴミ屋敷」)のほとんどが、国民学校高等科1年(後の中学1年)のとき終戦を迎え、戦後日本の復興とともに成長し、爛熟を眺めながら労働し、いつの間にか時代の分岐点を見過ごしてしまった忠市の生涯の記によって作られている。あたかも戦後の昭和史を鳥瞰図で見させられる感があり、それゆえ逆に、歴史の中で人間は線ではなく、ただひたすら点をつないで生きている事実を思い知らされる。この小説の、はらわたに当たる部分である。
そこへ入っていく前に作者は、忠市の逆ギレにも似た強い憎悪を生む「悲しみ」のありかへ、いったん読者の視線を誘う。
〈自分がなぜゴミを集めるのか、それは忠市にも分からない。「ゴミを集めている」という自覚はない〉
〈「捨てられているゴミ」であるならば、それは片付けられなければならない。「置き捨てにされたゴミではないもの」なら、それは拾われなければならない〉
〈「片付けるゴミ」として拾ったのか、それとも、「捨てられてはならない、まだ使えるもの」として拾ったのか、拾った瞬間に区別がつかなくなる〉
70歳を過ぎてやもめ生活を送る忠市の、曇りがかかった思考に沿って語られるために、快刀乱麻を切るとはいかない。忠市は、屋敷にあるのは「ゴミの山」だと知っているのだという。その上で、こう考えている。〈そのゴミの山の中に――ゴミの山のどこかに、まだ有用な「価値のあるもの」が眠っていることも知っている。それ(=ルビ点付き)はどこかにあるのだが、ゴミの山のどこにあるかは分からない。それ(=同)がどこかにある以上、ゴミの山は撤去されてはならない。ゴミの山のゴミが撤去されれば、それと同時に、その中に埋もれた「ゴミではないもの」も消えてしまう〉
読者は、忠市が何かを必死で守り、探し続けていることを察知する。何かは定かでないが、少なくともそれはゴミに埋もれ、一見ゴミそのものだが、確かにゴミではないものである。