おまえは一体何をだらだらと書いているのだとしかられそうだが、これらは私自身の、完璧な私憤としての「一九七九年」である。その頃、JOCが翌年のモスクワ五輪に選手団を派遣しないとは思いもしなかった。マラソンで瀬古、柔道無差別級で山下が金メダルを取ると信じ込み、私は中学校の卒業文集にそう書いた。しかし、西側諸国がモスクワをボイコットし、「予言」は外れた。
4年後の1984年は東側が報復としてロサンゼルス大会参加を拒否した。山下が痛めた右脚を引きずりながら金メダルをもぎ取った死闘は今でも語り草だが、もしソ連や東欧の強豪が出場していたら……という思いは消えない。同じ大会で瀬古は14位に沈んだ。後ろ向きに走っているのではと疑うほど急激に集団から落ちていった場面を私は覚えている。大いにがっかりした。
しかし、ジョージ・オーウェルが書いた小説『一九八四年』の世界であれば、さしずめ山下がソ連の選手を決勝で破って「西側諸国の一員」(当時よく使われた言葉だ)として面目を施したとか、瀬古が中盤までは集団の中で勝機をうかがい、35キロ付近からスパートして鮮やかに金メダルをものにした――といったことが、実際にあった話として人々の口の端に上ることになるだろう。
物語の舞台は1984年のロンドンだ。都市の名前こそ同じだが、イングランドやグレート・ブリテンは存在しない。アメリカがイギリスを併合し、さらに南北アメリカ、オーストラリア、アフリカ南部までを含んだ超大国「オセアニア」となり、ロンドンはオセアニアの「第一エアストリップ」地域の首都、ということになっている。
オセアニアに政治家はいない。議会もない。すべては「党」が決める。党の指導者は「ビッグ・ブラザー」と呼ばれる人物で、国民から圧倒的な(というより100%の)支持と敬愛を集めるが、誰も実際の姿を見たことがない。党は「中枢」と呼ばれる全国民の2%に当たる特権階級と、その手足となって働く「外郭」に属する党員からなる。党員といっても、一党独裁の全体主義国家では党=政府であり、官僚とか役人の立場に近い。一方、党員以外の大多数(85%)の国民は「プロール」と呼ばれるいわば「不可触民」で徹底的に分別、排除されている。
党員は常に思考警察によって監視されている。「テレスクリーン」と呼ばれる映像機器が各家庭、街中、職場のありとあらゆるところに置かれ、党のプロパガンダを垂れ流すと同時に、党員の一挙手一投足を視聴覚情報として逐一拾い上げる。党の方針に反する行為のみならず、それを「考える」ことそのものが死刑に値する「思考犯罪」という重罪だ。他人の思考犯罪を密告することは幼い頃から大いに奨励され、両親の会話を盗み聞きした子どもが思考警察に告発することも珍しくない。彼らは「小英雄」と呼ばれる。
主人公のウィンストン・スミスは党外郭に属し、「真理省」という政府機関で働いている。真理省は報道、娯楽、教育、芸術を所管する。ウィンストンの仕事は、簡単にいえば「過去の捏造」である。具体的には日刊紙『タイムズ』の過去記事を書き換えることだ。例えばある消費財の生産量が半年前に党が発表した予測を下回ると、予測を掲載した新聞記事が半年前にさかのぼって書き換えられる。また、党にとって好ましからざる人間が思考警察によって「消される」ことがある。すると、過去の記事に掲載されたその人に関する記述がすべて削除され、最初から「存在しなかった」ことになる。いずれの場合も、該当する号が再発行され、元の号は完璧に廃棄される。過去は常に改変され続ける。
だから、もし『一九八四年』の舞台が日本であったら、ロス五輪のマラソンで瀬古が金メダルを取った過去を作り出すことは簡単にできるし、また逆に期待されながら14位に終ったことが国家の不名誉とみなされて、早稲田大学競走部のOB名簿やヱスビー食品の社史に刻まれた名前とともに、その存在そのものが抹消されたかもしれない。
ともあれ、過去を現実に合わせて作り変える作業は、膨大な手間だ。オセアニアは4年前から「ユーラシア」と戦争をしていた。ユーラシアはオセアニアと同様、世界を分け取りした三つの超大国の一角だ。もう一つ「イースタシア」があり、オセアニアとは同盟関係にある。国民はユーラシアを徹底的に憎むよう強制され、また国民は喜んでユーラシアを憎んだ。ユーラシア兵の捕虜が公開処刑されるとき、辺りは隅田川花火大会の日の浅草のようになった。
ところが、ある日突然、党から「オセアニアが戦争をしているのはユーラシアではなくイースタシアだ。ユーラシアは同盟国である」と発表される。途中で交戦国が変わったのではない。4年前からずっとオセアニアはイースタシアと戦ってきたことにされるのだ。すべてが書き換えられなければならない。ウィンストンを含む真理省の役人が総出で1週間の徹夜作業に従事した。
これだけのマンパワーを動員するのだから、誰しも当然、党が過去を捏造していることを知っている。何よりも自分自身がその作業に携わっている(末端の作業は細分化され、全体像を見通すのは困難だとしても)。党ははなからプロールを無視しているから、党が過去を作り変えるのは、ほかならぬ党そのものに向けてということになる。なぜそんなことが必要なのか。