一面識もないサラリーマンの私生活なんかに誰も興味はないと思うが、私は週刊誌記者という仕事をしているので、週に一度、「締め切り」というものがあって、その日は決まって帰宅が深夜になる。
私は一流の生活者を目指しているので、どんなに遅くなっても晩ご飯(近頃は「夜ご飯」という変な言葉がある)は家で食べる。間食はしない。もっとも寝静まっている家族を起こすのは忍びなく、深夜営業のスーパーで発泡酒1缶(500ml)とカップ酒(1合)、それに魚肉ソーセージとキムチと冷凍ピラフ(冷食4割引き)を調達する。
帰宅して台所の水切りかごに入っている食器を布巾で拭きながら、冷凍ピラフを皿にあけてラップをして電子レンジにかける。その間に缶ビールを立ったまま半分飲む。ピラフが温まったら食卓に移動し、まずは魚肉ソーセージをかじりながら缶ビールのもう半分を片づける。ギョニソのフィルムは前歯でかじって開ける。包丁を使うと趣が落ちる。カップ酒はキムチをつまようじでつつきながら、飲む。このちびちび感がいい。箸を使うと趣が落ちる。
それに関連して思い出したが、先日試しに行った居酒屋チェーン「さくら水産」には、格安メニューとして「魚肉ソーセージ」がある。厚さ約5ミリの輪切りにしたギョニソが5枚、これで52円(税込み)。本来は1枚10円50銭(税込み)で5枚52円50銭(税込み)となるはずであるが、50銭分が切り捨てられている。四捨五入する手もあったはずだ。良心的である。が、本当に良心的であれば、1本50円程度で買えるギョニソで312円(ギョニソ1本を15センチと仮定すると30枚取れる)も稼ぐのはいかがなものかと思う。わが家も「さくら水産」をやればもうかるかもしれない。
このギョニソをつまようじで刺して、皿のマヨネーズにつけて食べる。つまようじでないといけない。箸だと一気に5枚つまんで食べてしまいそうになる。もとよりそれぐらいの量なのである。が、それでは趣が出ない。フグだって、薄造りの刺し身を箸でごそーっとさらっていく人がいる。あれは見ていて下品なものだ。「こうしないと味が分からない」と言う。確かにそうなのである。が、うまいものを食べたいと思う心、またそれを隠さない行いが下品だというのである。
大人が二人、「さくら水産」のテーブルで向き合いながら、皿に3枚残ったギョニソを「私1枚頂戴しますから、残り2枚、どうぞ」「あ、いいんですか。すみません」。美しい譲り合いの光景である。1枚10円50銭のギョニソで「どうぞ」もないものだと思うが、逆にいえば、たかがギョニソを薄く輪切りにして1枚10円50銭の値段をつけたから、居酒屋のつまみとしての体裁が生まれたのである。ほとんど共同幻想と言っていい。
が、このちびちび感、言い換えればせせこましさが、つまみの相対的価値を上昇させることに注目したい。マルクスによれば、技術革新などによって労働生産性が上がれば剰余価値(=資本家の儲け)が増え、一方で労働力の価値は下がる。この法則をあえて曲解すれば、逆に非生産的な行いをすればするほど、サラリーマンである私の値打ちは上がるということになる。
つまり、あえて毒々しい色のギョニソをかじって発泡酒を飲み、キムチをつまようじでつついてコップ酒をすすってみることで、週に一度の締め切りを乗り越えた私は「ああ、おれって案外、頑張っているなあ」と私自身を褒めることができるのである。そうこうしていると、起き出してきた家人がクズのような食事にあきれて、「ご飯くらい作るのに」と半ば責めるような顔で私を見るが、血肉にする目的で食べているのではないから、それでいいのである。
うろ覚えだが、「ちょっとだけ飲みに行くかといって、本当に徳利1本だけ飲んで帰るほどつまらないことはない」といった話を、吉田健一が酒食に関するエッセイに書いていた。一方、同じ徳利1本でも「終電までにもう1本飲めるか飲めないか」と思って飲む酒は実にうまい、とも言う。なるほど、人間はある程度自由が限られた状況の中でやりくりしてみることに、喜びを感じるものらしい。
例えば、大震災が来たときの練習だといって、家中の電気を消してロウソクを立て、その周りに家族が集まって買い置きの缶詰め(チョウシタのサンマの蒲焼きとか)を食べるなんていうのは、私はまだやったことがないが、わくわくする。また、おそらく主婦ならば、今日一日買い物に行かないと決めて冷蔵庫の中のものだけで夕餉の一汁三菜を調えるのは、非常にやりがいのある、面白い仕事だろう。
子どもが段ボールで作った「基地」に閉じこもってカップラーメンを食べるのも同じだし、そもそも酒飲みが、なるべくつまみを少なくして飲むほうが格上とされることも似たようなものだ。1合枡のふちに粗塩をなすりつけて飲み、「どうだ」という顔をしている。何か食べないと体に悪いと注意する人がいるが、もとより遊びである。三度の食事より好き、とはそういうことだろう。