菊地秀行さんの小説で〈魔界医師メフィスト〉シリーズがあります。あれは長髪をなびかせた信じられない美形のちょっぴり邪悪なところもあるアンチ・ヒーローの伝奇小説でしたが、本書のヒーローである医師ダミアンも、その天使のごとき美貌と、反面、正体の掴めない謎めいた言動で、数奇な運命に翻弄されるヒロイン、ダーシーをさらに振りまわします。
時代は19世紀後半、ヴィクトリア朝ロンドン。「逃げろ」という継父の声にせきたてられるようにロンドンの裏街に駆けだしたダーシーは、行くあてもなく、慣れない路上生活も限界に達していました。彼女は、かつては裕福な家の娘でしたが、父を早くに失くし、母親が再婚した先もまた裕福な商家だったものの、継父の商船が全財産を載せて沈没したことから、転落が始まりました。
姉は何者かと駆け落ちし、母は結核で亡くなり、残された継父は酒に溺れて、しまいには酒代のためにダーシーを売り飛ばそうとするのです。すんでのところで売られた先から逃れたダーシーは、改心した継父に逃げろと言われるままに路上生活者に身を落とし、もうここで働くしかないと悪名高い娼館の戸を叩きます。ところが驚いたことに、娼館の女主人は、かつて駆け落ちしたはずのダーシーの姉でした。そして、二度とここに来てはいけない、代わりにここへ行きなさいと、姉の手引きで紹介されたのが、医師ダミアンの屋敷のメイド職だったのです。
長く輝くような金髪に、天使のごとき容貌のダミアンは、なにやら姉と因縁があるようでした。使用人たちからは、生活が不規則でしばしば死体を屋敷に運び込むことから、不気味だと恐れられる存在。しかし床磨きで寒さに震えるダーシーにショールをくれたり、夜食をわけてくれたりと、さりげない優しさをしめします。
ある日、ダミアンの机に投げ出されたスケッチブックをめくり、そこに不器用に描かれた人間の足を目にしたダーシーは、思わずすぐ横にきちんと描き直してしまいます。絵を描くことが、底辺を舐めたダーシーに唯一残された喜びだったからです。翌日、スケッチに描き足した者は誰だとダミアンに問われ、クビを覚悟でダーシーは名乗り出ます。しかし、ダミアンが提案したのはまったく別のことでした。すなわち、解剖学者でもあるダミアンは、解剖図の優秀な描き手を探していたのです。
その日から、ダーシーはメイドの任を解かれ、ダミアンの助手として、数々の病巣や死体、臓腑のスケッチすることになります。「きみの手はぼくの手、ぼく自身の延長のようなものだ」そうダミアンに請われて、寄り沿い続けるうちに、二人の間には、信頼関係と、そして、抑えがたい恋情が芽生えていきます。
その頃、ロンドンの街では、若い娘を惨殺し、その死体の一部を切り取る連続殺人鬼が跋扈していました。手際の正確さから、犯人は医者だろうと言われており、殺害現場にダミアンのメスが落ちていたことからダミアンに疑いの目が向きます。たしかにダミアンには前述のように謎めいたところがあり、たくさんの解剖用の死体をどこで調達しているのかわからず、ダーシーに恋を囁きつつも、最後の一線で「ここから逃げろダーシー。ぼくはきみの害にしかならない。自分でも制御できない闇がぼくのなかにあるんだ」と彼女を拒絶します。
ダーシーは、姉が自分を追い立て際に、ダミアンについて忠告したことを思い出します。「ドクター・コール(ダミアン)には用心しなさい。あれは厄介な男、恐るべき男よ」果たして自分が愛した男は、信頼に値する男なのか。信頼がなくても愛情は成り立つものなのか。思い悩む彼女に、殺人鬼の魔手が迫り……。
ヴィクトリア朝の連続殺人鬼といえば、「切り裂きジャック」が有名ですが、このお話も、そんな「切り裂きジャック」の実話を下敷きに、事件を展開させていきます。「切り裂きジャック」の正体が医師ではないかというのは有名な仮説です。このバックボーンに加えて、著者シルヴァーは、「ドリトル先生」や「ジキルとハイド」のモデルだと言われている、18世紀の実在の解剖学者で近代医学の父と言われるジョン・ハンター(ウェンディ・ムーア著のノンフィクション『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』も奇人変人医者伝記で面白いですよ!)を、ダミアンのモデルとして取り込んでいると思われます。
この時代、まだまだ医学のためとはいえ、ひとの身体にメスを入れることに抵抗のあった時代ですから、解剖医は白い目で見られていたのです。そのあたりをうまく利用して、ダミアンの人物像と物語に陰影をつけるあたり、デビュー作なのに相当やるじゃないかシルヴァー(←何様だですが……)、と思わず膝を打ってしまいました。
医療モノって、いいですよね。「ER」とか、『チーム・バチスタの栄光』とか、医師好きな層ってあると思うんですよ。本書の場合、雰囲気的には〈魔界医師〉寄りですが(これもまたよし!)、近代医学の曙的な雰囲気もありまして、そしてぶっちゃけ医師萌えなので、メスを握る神のごとき手で愛撫されるのとか、たいへんロマンス的にもグッドですよね、と思います。
一方、ダーシーですが、路上生活者まで身を落とすヒロインって、なかなかいないなあと思います。どん底を知っているからこそ、誰よりも優しく、強くなれるのではないかしら。ダミアンと出会った初めこそ、ボロボロのガリガリでしたが、ちゃんとダミアンに面倒をみてもらって、美しい娘さんに変貌! しかもけなげで頑張り屋の優しい子なので、屋敷内にもたくさんファンがいて、得体の知れない旦那様(ダミアン)の毒牙にかかってしまうのではとよってたかって心配されたりします。うーん、ダミアンかたなし。
上記で本作が著者のデビュー作だと書きましたが、シルヴァーは本作で2005年にデビューした作家。ヒストリカルとパラノーマル・ロマンスで好評を得て、イヴ・ケニン名義の近未来ロマンスなど、順調に作品を上梓し続ける傍ら、なんと人体解剖学と微生物の講師をしているそうです。この知識に裏付けされての、解剖話なわけですね。☆☆☆☆★
解剖の精密度☆☆☆☆
ヒーロー正体不明度☆☆☆☆
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |