ブームの追い風もあってか、他ジャンルで活躍している作家の時代小説参入が相次いでいる。二〇〇八年は内田康夫、真保裕一というミステリー界のビッグネームが本格的な歴史小説を発表して話題を集めたが、二〇〇九年に入っても、須賀しのぶ『芙蓉千里』(角川書店)、高橋哲夫『乱神』(幻冬舎)、浅倉卓弥『黄蝶舞う』(PHP研究所)など、人気作家が相次いで時代小説を刊行した。その中でも真打ちといえるのが、冲方丁(うぶかた・とう)『天地明察』である。
日本では八六二年以来、唐からもたらされた宣明暦を用いていたが、江戸時代初期には約二日の誤差が生じていた。物語は、地道な天体観測と日本と中国の経度差を計算することで、史上初めて日本人の手で暦(貞享暦)を作り上げた渋川春海(安井春海)を主人公にした歴史小説である。春海は、将軍に碁を指導する初代安井算哲の実子であり、貞享暦完成の功績が認められ、初代幕府天文方に任じられた(幕府天文方は、渋川家の世襲となる)エリートなのだが、著者は必ずしも春海を完全無欠のヒーローとはしていない。
春海が青春時代を送ったのは、能力があれば出世できた戦国乱世の記憶も薄れ、身分に家柄、先例や統制が重視されるようになっていた徳川四代将軍家綱の時代。太平の世に相応しく、食うに困ることはなく、家業である囲碁の修行に邁進していれば失業の心配もない環境で生まれ育った春海だが、ぬるま湯のような人生を捨ててでも、真剣勝負をしたいと考えていた。
恵まれた環境にいるからこそ将来が簡単に予測できてしまい、逆に閉塞感にさいなまれている春海は、現代の若者の苦悩と重なる。それだけに“自分探し”を続けていた春海が、保科正之や水戸光圀といった偉大な先輩に導かれたり、天才棋士の本因坊道策や天才数学者の関孝和へのコンプレックスを乗り越えたりしながら、独自の暦を作るという目標に向かって突き進む姿には、思わず共感してしまうのではないだろうか。
物語の終盤、長い間、棋士としての自分、数学者としての自分、公務として新しい暦を作っている自分に引き裂かれていた春海が、貞享暦を認めようとしない朝廷を説得するため、棋士らしく布石を打っていくところは、悩んだり、挫折したり、遠回りしたりすることが決して無駄ではないことが実感でき、感動も大きかった。
もう一つ興味深かったのは、本書が一般的な歴史小説のように武将=政治家ではなく、技術者を主人公にすることで、新歴作製という最新テクノロジーが政治、経済、文化、宗教に及ぼす影響を丹念に描いていることである。
大正末期の大衆文芸運動をリードした白井喬二は、タイトルとは裏腹に新撰組がほとんど出てこないことで有名な『新撰組』で、二人の独楽職人の勝負を朝廷と幕府の代理戦争になぞらえていたし、大作『富士に立つ影』では、二つの築城家の論争(技術論&プレゼンテーション対決)を軸に幕末から明治に至る激動の歴史を語っていた。おそらく白井喬二が血なまぐさい剣戟を否定し、職人の技競べを好んで取り上げたのは、歴史を動かしたのは一部の特権階級=武士ではなく、名も無き庶民だったとの発想があったのだろう。
本書にもチャンバラや合戦は出てこないが、その代わりに春海と関孝和の数学勝負や、日蝕が起こる日時を当てることで宣明暦の誤りを天下万民に示す勝負など、技術対決が下手な剣戟シーンなど足もとにも及ばない迫力で活写されている。まだ若い著者が、白井喬二を思わせる技術系時代小説を書いたことは、意識的か偶然かは別にして、ジャンルの伝統が継承される瞬間を目撃したようで嬉しかった。
作中には、膨大な手間と費用をかけて新暦を作る意味があるのかが議論される場面もあるが、これは民主党の事業仕分けでスーパーコンピューター開発の是非が問われたことを彷彿とさせる。また新技術が社会に良い影響を与えることもあれば、悪い影響を与える可能性もあることを指摘することで、技術者が守るべき倫理とは何かなども問いかけており、新暦作製という巨大プロジェクトを通して、技術をめぐる今日的な問題をあぶり出していることも忘れてはならないだろう。
初めて時代小説に接する冲方丁ファンのためか、冒頭に江戸初期の武家の作法などが細かく描かれているのだが、時代小説を読み慣れていると当たり前のことが書かれているだけなので冗長に感じてしまったのと、逆に春海の晩年を描く終盤は、年表的にエピソードを羅列しただけなので(もしかして、司馬遼太郎の長篇のパロディか?)、感興を削がれてしまった。そのマイナスを差し引いても十分に☆☆☆☆★。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |
『天地明察』については、ほかの評者による書評も収めていますので、ぜひお楽しみください。
『天地明察』 レビュワー/三浦天紗子 書評を読む