もう一冊翻訳ミステリーをご紹介したい。ジェフリー・ハウスホールド『祖国なき男』である。かの名作『追われる男』の続篇にあたる作品で……と書いても馴染みのない読者の方が多いはずだから説明します。
『追われる男』というのは作者が一九三九年に発表した作品で、贅肉をすべて削ぎ落とした冒険小説だ。単純な筋立てなのである。
ヨーロッパの某国にファシストの政権を築いた独裁者がいる(発表年度に注目)。主人公はその独裁者を狙撃して暗殺しようとするのだが、発覚して捕らえられ、拷問の上崖から放り捨てられる。秘密警察の面々は死を確信して引き揚げる。ところがどっこい、彼は生きていた。生爪を剥がされ、片目の視力をほぼ失い、全身に傷を負った無残な姿ではあったが、かろうじて生きていたのである。獣のような生命力を発揮して生き延びることに成功した主人公は、素性を隠して逃げようとする。だが、秘密警察は彼が生きていることに気づき、追っ手を差し向けてくるのである。かくして始まった絶望的な逃避行の顛末を描いたのが『追われる男』という作品だ。
題名に偽りなし。全篇これ逃避行である。凄いのはその逃げ方で、変装や身分証明書の偽造といった文明的な手法だけではなく、原始生活に戻ったかのような手段まで駆使して主人公は生き抜こうとするのだ。人間の原初的な力を改めて認識させられる作品であった。
その続篇が、前作から四十三年後の一九八二年に発表されていたのである(実はこの本、ずいぶん前から訳出されるとの情報があり、『再び追われる男』という仮題でミステリー・ファンの間では知られていた)。
逃亡生活を終えた主人公は、三年後再びドイツにいた。前作では明らかにされなかった独裁者の名がアドルフ・ヒトラーであることは、本書で初めて読者に告げられるのである。わざわざ再入国を果たした理由は、もちろんヒトラー暗殺である。主人公はそのためにナチス党シンパを装い、密かに機会をうかがっていた。だが、機会が訪れる前に第二次世界大戦が勃発する。母国に戻って正規軍に身を投じようとした主人公だったが、思わぬ障害が待っていた。帰国を拒否されたのである。三年間の身分の偽装が誤解を生み、彼は親独派の危険分子と見做されるようになっていたのだ。帰るべき祖国を失った主人公は、ヨーロッパ中を彷徨い、ヒトラーに一矢報いる機会を窺い始める。
これまた看板に偽りなし(原題はRogue Justiceだから違うんだけど)。あるときはアウシュヴィッツ行きの囚人護送列車に乗りこみ、あるときはアルパチア山脈を徒歩で越え、と終わりの見えない放浪が続く。そんなにナチスが憎ければどこかのパルチザンに参加して戦えばいいようなものだが、彼はあくまで英国軍に固執し、それが果たせないのであれば一人で闘うという方針を貫くのである。
英国人としての誇り、だけではないだろう。彼にとっては、対ヒトラーという決闘なのだ。ドイツ軍そのものを憎んでいるのではなく、ファシズムの象徴であり、自分の想い人を殺害した非道集団の長として、ヒトラーを憎んでいる。その相手を倒すためにはあらゆる手を尽くすが、正々堂々とした決闘でなければ意味がない、というわけなのですね。この辺のこだわり方が非常におもしろい。前作同様、冒険小説のエッセンスを取り出したような作風で、単純な筋立てだけに凄味が伝わってくる。できれば『追われる男』から通読するのが望ましいけど、これ一作でも充分に楽しめます。☆☆☆☆でしょう。
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