傑作揃いで眩暈がしそうだが、最後にもう一冊。道尾秀介『球体の蛇』をお薦めしておきたい。第五回ホラーサスペンス大賞特別賞を『背の眼』で獲得し、ミステリー畑でデビューした作者が、初めて新境地に挑む作品である。
主人公の友彦は、十七歳の高校生だ。女を作って母親と離婚した父親を嫌い、彼は隣人の橋塚家に居候して生活している。父親が東京に転勤していったためでもある。橋塚乙太郎の職業は白蟻駆除だが、友彦はその仕事の助手も務めている。
ある日、友彦は白蟻駆除のために訪れた屋敷で、運命的な出会いを果たした。しばらく前から町で見かけていた、年上の女性だ。屋敷に住む老人の元に、彼女は通ってきているらしい。電撃的に芽生えた感情を抑えきれず、友彦は深夜を待って屋敷の床下へと忍び込んだ。そこで、老人と女性が性交する音を聞いてしまうのである。盗み聴きが彼にとっての麻薬となる。だが毎夜のように屋敷に出かけ床下に忍び込んでいるうち、大変な事態に友彦は遭遇してしまうのだ。
物語は三章構成になっており、ここでは一章の中途までを紹介した。二章、三章と移り変わるごとに小説の風景は変わっていくが、事件が頻繁に起こるわけではない。変化が生じるのは、友彦という主人公の心象風景がうつろっていくからだ。友彦は、幼少期に忘れえぬ体験をしたために、心中に一つの重石を抱えて生きている人物だ。年上の女性である智子に惹かれた一因も、その出来事にあった。そうした主人公が、新たな経験によって少しずつ心のかたちを変えていくという作品なのである。事件や事故が起きないわけではないが、それらはあくまで従だ。作者の主たる関心は、友彦の心を描くことにある。
これまでの道尾作品では、読者に対して重要な事実を伏せられたままで物語が進んでいくことが常であった。その秘密が明かされたときの驚きが最大になるように、作者は計算して物語を組み立てていたわけである。『球体の蛇』においては、そうした驚きの要素は副次的なものにすぎない。友彦の心情を読者がきちんとトレースできるように、むしろミステリー的な興趣を抑えているといってもいい。過去の作品であったら必ず隠していた要素を、投げ出すような形で道尾は書いている。そうした技法に頼らずに自分がどこまでいけるものか、新生道尾の試運転をしてみたかったのだろう。
一人の女性に執着するあまりに、友彦の人生は迷走し始める。その苦悩や、若さゆえの暴走のさまを道尾は哀しいほど誠実に描いていく。人生とは、振り返ってみれば常に後悔に満ちているものだ。そうした残酷さを直視するための小説である。誰の胸にも切ない読後感を残すはずだ。作家の冒険心に敬意を表して、☆☆☆☆☆を進呈します。この路線の道尾秀介もまた読んでみたい。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |
道尾秀介作品については、以下の書評も収めていますので、ぜひお楽しみください。
『花と流れ星』 レビュワー/酒井貞道 書評を読む
『龍神の雨』 レビュワー/塚本ヒロユキ 書評を読む
『鬼の跫音』 レビュワー/杉江松恋 書評を読む
『カラスの親指』 レビュワー/塚本ヒロユキ 書評を読む
『ラットマン』 レビュワー/杉江松恋 書評を読む