10月に河出書房新社から、「河出ブックス」が創刊された。まず一気に6冊の刊行。ラインナップを見たところ、人文書や「教養」に対して逆風が吹くご時勢にあって、あえて果敢にそこに切り込んでいこうという意志を感じる。新書よりはもっと深く専門分野に踏み込み、しかし学術書よりは風通しも良く、価格も抑えめ。期待したいシリーズである。
さて、書店の平台を見たところ、どうやら初回刊行本の中でいちばん本が減っている(売れている?)ように見えるのが、石原千秋著『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』である。著者の石原氏は、受験国語についてのスペシャリストであり、また文芸批評家として漱石や村上春樹についての著作があり、今回は本格的な「読者論」。「そういえば読者論なんて、しばらく読んでいなかったな」という思いとともに、さっそく読書をスタートする。
本書から教えられることは多々あるが、我々が日々、あたりまえのように行っている「読書」という行為、疑いもなく自分自身がそうだと感じている「読者」という存在が、いかにして成立したのか、近代という空間の中でどのように出現したのかを丁寧に論じているのがまず良い。単に歴史を遡行し、起源を問うばかりでなく、いくつかキーワードを提出しながら順序だてて論じられているので、「読者」たる我々のアタマの中身も同時併走的に整理されていく。
スタイルとしての本書の美点は、著者が自らの読者論を構築するにあたり、主に欧米の思想家や批評家の提出した概念や論考を使用することを、まったく厭わないという点にあると思う。日本では、80年代にポストモダン思想が流通(流行)し、フーコー、デリダ、ロラン・バルトといった人々の概念が文芸批評にも広く適用されたが、その後、その反動として、文芸をめぐる批評やエッセイにこれらの概念(どころか思想家の名前だけでも)が登場すると、もうそれだけで「あんなものは読めたものではない」「いまだにバルトとか書いていやがる」といった空気が充満してしまったきらいがある。確かに、そうした思想家の概念を「虎の威を借る」式に援用し、二番煎じ、三番煎じに垂れ流すだけの批評もたくさんあったに違いないが、フーコーとかバルトが引用してあるだけでダメだと決めつけ、ベンヤミンならちょっと読んでみよう、などという恣意的な判断はまったく不毛なもので、「使えるものはなんでも使えばよい」という本書のアッサリしたスタンスは、それだけでも貴重である。
【小説の読者は「ここにも自分がいる」と感じたに違いない。そして、「あの人も自分と同じように読んでいるだろう」と感じているに違いない。その上で、「自分はちょっと違う読み方もしているし、違う読み方ができる」という感覚を自己のアイデンティティーのよりどころとするのが大衆だ。それが近代小説の読者である。
フーコー流に言えば、主体を確立することは権力を内面化することにほかならない。たとえば、日常生活に張り巡らされた権力の網の目を小説が掬い取って、近代読者はそれを自己の内面の鏡として主体化して、アイデンティティーを確立するわけだ。そのようにして、国民が生まれる。国民とは目に見えない国境を内面化した人間のことだからである。この見えない国境こそが、内面の共同体なのだ。】
フーコー以下のくだりがいささか難解で、もうちょっとわかりやすく書いて欲しいという気もするものの、まあわかる人にはわかるのだろう。前半部分はまさにそのとおりというか、我々は確かにそのような「近代人」だなと思わせられる記述で、だって、ある小説について筆者がBook Japanでレビューを書くにあたって、「きっとぼくのレビューを読んでくれる人も、同じように読んでいるだろう」という前提と、にもかかわらず「ぼくにはこんな読解もできちゃうんだな、エッヘン」といういささかの自負が同時にセットになっていなければ、書評を書くこと、書評を読むことが成立しないのである。
「内面の共同体」という言葉は、カルチュラル・スタディーズの古典として高く評価されている、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』からヒントを得ているが、本書の中心概念といっていい。「内面の共同体」が成立するために「黙読」が果たした役割について論じ、そもそも「黙読」が可能になるような空間が近代の中でいかにして生じたかという分析がなされる。「作者」と「私」と「語り手」と「読者」についての精緻な考察の結果、「語り手とは読者だったのだ」という結論に至る記述はスリリングで示唆に富んでいる。
にもかかわらず筆者には一つ、大きな不満がある。それは本書で書かれている読者論がすべて、小説の読者をめぐってのものだという点である。およそ文学に限ってみても、短詩型文学も随筆も批評もエッセイも紀行も戯曲もあるではないか、と、単純にそのことを言いたいのではない。小説こそは、近代という空間でなければ成立しなかった文芸の一形式だということはわかるし、だからこそ読者論=小説論=近代論というのもよくわかる。そして著者の石原氏が、柄谷行人の「近代文学の終り」に異を唱え、「内面を書くことと内面を読むことの違いを考慮していないのではないか」というクエスチョンも正当なものだと思う。にもかかわらず。
小姑的な手つきで指摘をすれば、本書の副題「書物の中の私たち」は、「小説の中の私たち」とすべきであると思う。小説ばかりが書物でない、などといういわずもがなの文句が、野暮で無力なことは重々、承知している。しかし本書には、「この本の読者論は、小説をめぐってのものである」というエクスキューズというか断りというか、それが一行も書かれていない。
今日の文芸にあって、小説はまさに「帝国」である。筆者は常々、「帝国」の洗練と、「帝国」内で行われている自己解体と更新について魅了されると同時に、「小説ばっかりだよねー」と思っている者である。そして『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』の中の「書物」が小説しか含意していないのは、これは意識的なものではなく無意識のものであるように読めてしまう。そこが余計に気にかかる。見当違いだったらお詫びするが、「無意識」はマズいよ。
と、いうグチャグチャした「内面」を反映して、星も少々フクザツに、☆☆☆★。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |