女が三つで「姦しい」となる。実際、女性が三人以上集えば、そのお喋りたるや、かしましいもの……と、わが身を振り返りつつ思う。多くの場合、そうした場で話されている議題は、「新政権のマニフェスト」についてでも、「金融資本主義の限界」についてでもなくて、そう、「男」についてである。
そして、そんなお喋りを名づけていわく、「ガールズトーク」。話者の年齢など関係なしに、女性が男についてのあれやこれやを語りあうことは、すべてガールズトークなのだ。
本書には、「川上弘美的 ガールズトーク小説」とある。これはなかなか、言い得て妙だ。
結婚生活に大きな不満はないが、日々のマンネリを自覚しつつある38歳の菜月は、ある日、町でかつてのボーイフレンドの母親と遭遇する。60歳半ば過ぎであるはずの「土井母」は、機嫌よさげに一枚のカードを差し出す。そこには「これでよろしくて? 同好会」との文字。後日、おそるおそる連絡をとった菜月に、電話口の女性は、洋食屋での会合を知らせる。
こうしてなし崩し的に菜月が参加することになったのは、毎回三人から五人程度の年齢もバラバラな女性たちが集まり、とりわけ男性の所業について、さまざまな議題をとりあげては討論する会合だった。訪れた息子の部屋で、半裸の女性と対面したらどうするか。機嫌のよすぎる男というのは、ほんとうに信頼できるのか。夫の実家では、お風呂の順番をどうすべきか。なぜ日本人は肉じゃがを人気ナンバー1おかずというのか、などなど。
議題は、硬軟、具体的なものから抽象的なものまで、種々多様だ。
会にはじめて出席した菜月は思う。「息をするのが、なんだかここでは楽だな」。
なんとも奇妙で非現実的なこの会合の様子とともに描かれるのは、菜月が夫の妹との同居生活に押し切られたり、彼女が帰ったかと思うと、今度は義母に押し掛けられたりするという、「ザ」がつきそうな「嫁姑関係」の事の顛末である。とはいえ、ここに、殺傷沙汰の喧嘩や、壮絶すぎる嫁イビリなどはない。菜月も負けつづけたりはしない。
世間にありふれているがため、小説の題材にするには地味すぎるかもしれない、感情のちょっとしたささくれや、気遣いや、言葉の行き違いや、夫への不満。そうした細かなディテールがたんねんに積み上げられていくのである。
「そのくらい、いいわよね」/というのは、「ママン」の口癖の一つだ。
たまに服を買うとき。/少しだけ高めの食料品(それも、からすみ、だのトリュフ、だのというものではなく、ふだんあまり使わない香辛料、とか、外国製のコンビーフの缶詰、といったほんの少しだけぜいたくなもの)を買うとき。/葵子のおもちゃを買うとき。/ご飯をいつもより余分に一膳多く食べるとき。
そのくらい、いいわよね。言いながら、「ママン」はそれらのことごとを、遠慮深げにおこなう。
(けっこう気が小さいんだな)/「ママン」のその口癖を聞くと、いつもわたしは思う。
(それから、けっこう、つましくもあるんだな)
いわば川上弘美は、〈大きな物語〉の起承転結ではなく、ただひたすら、ひとの心の複雑さをユーモアたっぷりに丹念に追いつづけることで、小説をぐいぐいと推進させていく。やわらかい印象の文体で書かれた小説だけれど、それはきっと、雑だったり無駄だったりする文章が一行もないから。下草は、手間を掛け、きれいに摘みとられているのだろう。物語の起承転結だけを、小説の駆動力にしないとは、そういうことなのだ。
また、川上弘美の真骨頂というべき脱力系のユーモアはあちこちにちりばめられている。もちろん「同好会」という設定も見事なら、三度の結婚と離婚をしてきた会のメンバーをはじめとする、登場人物たちのキャラクター造形も見事。
だからこそ、読者は、小説の登場人物たちの平凡さにひそむ、ささやかな感情の綾――喜び、諦め、哀しみ――に出会うたび、自分自身の内面をトレースさせるように、反応してしまうのだろう。可笑しいのに、ぐっとくる。川上節が堪能できる一冊である。
というわけで、☆☆☆☆。
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