ヴァレリー・ラルボーという作家の名前を記憶してもらうことだけでも、じゅうぶんに意味のあることなのだけれども、今回唐突にあらわれた『恋人たち、幸せな恋人たち』の眩いばかりのその小説世界は、よくぞこうした文章が20世紀のうちに呑み込まれて消えてしまわず、21世紀まで届けられたものだという思いを強くさせる。フランス本国でいま、ラルボーがどのように遇されているかはわからないけれど、2009年に極東の島国で、周到な訳文とともにラルボーが読めるというのは、まさしく僥倖以外のなにものでもない。
ヴァレリー・ラルボーは1881年にフランスのヴィシーで生まれている。翻訳者である石井啓子さんの解説によると、「マルセル・プルーストやアンドレ・ジッドよりも十歳ばかり年少で、彼らと同じくフランス二十世紀を代表する作家のひとりです」ということになる。ただしご当人は、「代表する作家」であるような在り方を忌避していたらしく、ラルボーを語る際にしばしば引き合いに出されるのは、「二十世紀の忘れられた作家になりたい」というその発言である。
目論見どおりに行ったというべきか(?)、フランス本国はいざ知らず、日本の仏文学者たちはごく一部の人を除いて積極的にラルボーを翻訳・紹介をするようなことがなく、これまで文庫化の機会も非常に少なく、単行本も、いわゆる大手と言われる出版社から出たことは一度もなかったのである。
それが2005年、岩波文庫から、まさしく「忽然と」という形容が相応しいような形で岩崎力氏訳(岩崎氏こそ、複数のラルボー作品を日本の読者に紹介し続けてきた“恩人”だ)の『幼なごころ』が出版されたことで、なにやら雲行きが変わったのだろうか。『幼なごころ』は、岩崎氏自身が撮影した、近景でも遠景でもなく、モノクロームの中景でとらえた2人の子供の写真がカバーにあしらわれ、そのたたずまいと気品に心奪われて、「なんだかすぐ絶版になっちゃいそうだから、10冊くらい買い占めようか」と思わせるような絶品で、そこから4年後、まさかちくま文庫で新しい作品が読めるとは思わなかった。
【それからというもの、ジョアニーは一日のうち三時間、目が眩むほどのまばゆいひと時を過ごすことになっていた。残りのすべての時をも新しい光で照らしだしてくれるほどの、まばゆいひと時――それは、午後の一時から二時、そして四時から六時までのあいだだった】
『恋人たち、幸せな恋人たち』には、表題作の短編と、「フェルミナ・マルケス」という中編の二作品が収録されている。これは「フェルミナ・マルケス」のほう、第Ⅺ章の冒頭部分である。本当なら、「フェルミナ・マルケス」のいちばん最初の書き出し、第Ⅰ章の、あの決定的に美しい最初の三行をここに書き写したいのだけれども、さすがにそれは差し控えよう。
いちにちの中のまばゆい三時間が持つ意味と、その三時間のありようを、短いセンテンスの中で重層的に述べている語り口の見事さ。「フェルミナ・マルケス」は、思春期の男の子たちが通うパリのコレージュに、ある日、南米はコロンビアからやってきた美少女――その名前がフェルミナ・マルケスである――が出現することによって、学園がまるで小石を投入された水たまりのごとき様相を呈し、そのさざ波のさなかで時に苦しく、時に甘美に溺れる十代の子供たちを描いた青春小説である。
もう一編の「恋人たち、幸せな恋人たち」は、ジョイスが開発したとされる「内的独白」の手法で描かれたもので、ここでは人が歩いたり、泣いたり笑ったり、それら身体や行動の中に心理が内包されているのではなく、逆に「意識」が主人公になって時空を闊歩し、そこに都合に応じて身体をくっつけたような小説である。けっして読みやすくはなく、むしろ船酔いに似た失調を感じるかもしれないが、読み進めるにつれて、ある時点で心地良く身を任せるようなことがもしできれば、その読書はたぶん、かけがえのないものになる。
忘れられた作家の、忘れがたい極上品『恋人たち、幸せな恋人たち』に、「また新しい翻訳が出ますように」と願いを込めて、☆☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
---|---|
おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |