『グールド魚類画帖』で悪夢的幻想性を炸裂させたリチャード・フラナガンの最新長篇は、(意外なことに)9.11を真正面から扱った小説である。
ポールダンサーのジーナは、ブランド好きの、しかしマンションの頭金を地道に貯めているような女の子。26歳だが、17歳からこっちはつねに22歳と自称してきた。出身はオーストラリアの西部出身で、そんな田舎から抜け出したいまは、欲望の都市シドニーでしたたかに身体をさらして生きている。けっしてバカでも、向こう見ずでもない。ただし、すこし孤独ではある。
ある土曜日にジーナは、中東出身のセクシーな男性タリクとゆきずりの一晩を過ごす。
そして翌朝、ひとりけだるくベッドから起き上がって来たころにはもう、彼女はなんと、アルカイダにからむテロリストとして警察に追われる身となっていたのだった。
前夜、未遂に終わったスタジアムの爆破テロの、共犯者。
タリクと腕を組み、マンションのエントランスを通過するドールのぼやけた映像とともに、そんなフレーズが、テレビでくりかえし放映されていく。
その土曜から、日曜、月曜、火曜までの計4日間を描いたのが、この小説だ。
無実のひとを犯罪者に仕立て上げる、メディアの脅威。政府が介入する情報統制。メディアの情報をうのみにし、犯人捜しに熱狂する一般大衆。唯一絶対の親友との、信頼が揺らぎだす瞬間……。
しだいに加熱していく「魔女狩り」のようすを、ジーナの視点からだけではなく、捜査関係者、一発逆転的な大スクープを狙うジャーナリスト、彼女の友人や客といった人々の心情もフォローしながら多角的に描き出すことによって、「敵」がいかにして増殖するかが見える構成だ。
そして、逃避行劇の合間に挟まれるのが、彼女の“過去”であり、“本当の姿”である。能天気にふるまう彼女の裏側に、母親の事故死や、いまわしい過去の出来事や、いまなおうずく心の傷が隠されていることが、読者に了解されていくのだ。
構成のうまさとスピード感あふれる文体により、不安感は高まっていく。
訳者あとがきによると、著者のフラナガンは故郷タスマニアの森林伐採をめぐり、地元大手企業への抗議活動を行なってきた。そのなかで、マスコミの非‐公正性を実体験し、それが本作のアイディア・ソースとなったようだ。
サスペンスとしても、心理劇としても優れ、なおかつ訴求力のある「現代メディア批判」となっている本書。わたしとしては、文句なしに☆☆☆☆☆である。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |